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母親の史絵はひとりで透子を産んだ。相手の男は幼なじみだと言うが、妊娠したと聞いて一目散に姿をくらましたという。史絵曰く、度胸も経済力もない男だったそうだ。
身重の史絵が気晴らしに出かけた隣町の美術展。そこで知り合った年上の男が、現在の史絵と透子の生活を守ってくれている。職業は芸術家だという。「ゲイジュツカ」という単語を子供のころから繰り返し聞かされていた透子は、それが彼の名前なのだと思いこんでいた時期もあるほど。史絵はその「ゲイジュツカ」に結婚を迫ることもせず、ただ援助を受けつつひとり透子を育てた。
とは言っても寂れた田舎町で、若い娘が子育てをすることはどうやっても人の口に上る。近所、それも年配ばかりの町内で、史絵と透子の生活は完全に浮いていた。
「透子ちゃん」
近所というか、百メートルほど離れた隣の家の五十代くらいの女性が透子に声をかけてきた。彼女の名前は寺山。寺山家の前を通り過ぎないと家には帰れない。古い石造りの門の側に立っていた女性はにこにこ笑ってこう言った。
「はい」
中学三年生の透子は、規定通りの長さのセーラー服のスカートを翻して振り返った。
「今帰り?」
「そうです」
「ちょっと寄っていって。みかん、持って行きなさい」
「・・・・・・はい」
寺山は必ずと言っていいほど、透子を見かけると家に招く。一度断ったことがあるが、ある時母の史絵が「あんたの娘は冷たい子だ」と言われてしまった。それ以来「寺山さんに声をかけてもらったら断るな」ときつく言われている。寺山のこの誘いは情報収集が目的であることを透子はわかっている。おじゃまします、と言って玄関に入る。勝手に上がり込むと今度は「ずうずうしい」と言われるので、「上がって」と言われるのを待つ。日によって玄関先で済む場合もあるからだ。今日は何も言われないのでここで済みそうだ。
「ほらこれ、甘くて美味しいの。たくさんあるから持ってってちょうだい。史絵さんによろしくね」
寺山はスーパーの袋にぎっしり詰まったみかんを持ってきた。丁寧に両手でそれを受け取り、透子は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お父さんは、みかん好きかしら?」
「多分、好きだと思います。聞いたことはないですけど」
「そう、お父さんにもよろしくねえ」
「はい」
史絵と「ゲイジュツカ」の関係性はいわゆる通い婚みたいな状態で、一緒に暮らしてもいない。ただこの田舎で家の前に外車が停まっていれば、一目で夫が透子の家に来ていることがわかってしまう。知ってか知らずか寺山は「ゲイジュツカ」のことを嬉々として「お父さん」と言う。
ちょうどというか、運悪くというか、夕べから今朝にかけて「ゲイジュツカ」の車は透子の家の前に停まっていた。
「じゃあ失礼します、ごちそうさまでした」
透子は改めて深々と頭を下げ、きびすを返した。ずっしりと重いみかんの袋を胸の前に抱えて、家までの百メートルを歩き出す。ドアを開けて、寺山が自分の後ろ姿をのぞき込んでいることも知っている。途中で重そうなそぶりを見せたら、また史絵が文句を言われる。そして透子が怒られるのだ。
背筋を伸ばして歩き、やっと自宅の前にたどり着く。なんとまだ「ゲイジュツカ」の車が停まっている。もう夕方なのに、まだいるのか。
「ただいま」
玄関でわざと大きめの声を出す。中から「おかえりー」と史絵の声が聞こえる。絶対に側に「ゲイジュツカ」がいるはずだが、彼の声は聞こえない。
「寺山さんがみかんくれた」
リビングのドアを開けるのと同時に透子は言った。史絵は顔は変えずに小さくため息をついた。普段からワンピース、それも大きな花柄だとか幾何学模様だとか、レトロ風味の洋服を好む史絵。今日は橙色の花柄のワンピースにオフホワイトのカーディガンを羽織り、強くウェーブのかかった髪をまとめてシニヨンにしている。
「この間も箱で貰ったのに」
「だって断っちゃだめなんでしょ」
家の前に車があったのに、「ゲイジュツカ」の姿はない。
「そうだけど、ふたりじゃ食べきれないわよ」
「持ってってもらえば?」
「・・・・・・」
史絵は黙り込んだ。そして「そうね」と言った。どさん、とみかんの袋を床に降ろしたタイミングで背後から「透子」と声をかけられた。その低い声がもちろん誰かわかっていて、透子はゆっくり振り向いた。
「おかえり。今日は早かったな」
まるで本当の父親のような口振りで「ゲイジュツカ」こと鹿山勢太郎は透子に笑いかけた。
「・・・・・・みかん、好きですか」
史絵との会話を聞いていたとわかっていて、透子は言った。
「好きだよ」
「たくさんもらったんです。少し持って行ってくれませんか」
「ああ、ありがたくもらっていく」
鹿山勢太郎は史絵の二つ歳年上だった。体型も若々しく、肩につく長さの黒々とした髪をうしろにひとつにまとめたスタイルは、この田舎町ではとにかく目立つ。精悍な顔つきは美中年と言っていいだろう。
透子は、母の史絵と勢太郎が付き合い始める前から、彼の存在は知っていた。美術の授業でこの町出身の芸術家ということで彼の作品を取り上げたのだ。石膏職人という、普段どうあっても接点を持たない職業に透子は興味を持ったが、他の女子生徒たちは顔写真の方に反応し「イケメンだ」と色めき立った。母親の史絵が初めて彼を家に連れてきた時、その整った顔立ちを間近で見てはじめて、透子は友人たちの言っている意味を理解した。
透子は整った微笑を浮かべる勢太郎に向かって言った。
「これ、どうぞ」
透子はみかんの入ったスーパーの袋を持ち上げようとしたが、勢太郎が先に手を伸ばした。重くてもう持ち上げる気にならなかったので助かった。
「これを持ってきたのか、重かっただろう」
勢太郎は透子をねぎらいながら袋を持ち上げた。寺山も勢太郎に食べてほしがっていたのだからちょうどいい。勢太郎は空いた手で透子の頭をぽん、と押さえた。
「それじゃあ史絵、また来週来る」
「ええ」
勢太郎は透子越しに史絵に別れの挨拶をして、玄関に向かう。送り出す史絵と交差して透子は洗面所に向かう。彼が帰る時、いつも史絵は車が見えなくなるまで外に立っている。その姿がいじらしい、と透子は思わない。
洗面所で時間をかけて手を洗い、さらにコップに水を溜め入念にうがいもする。子供の頃からの習慣だ。史絵はまだ外にいるらしい。二階の自分の部屋に上がろうと階段の手すりを持った瞬間だった。
透子はいまだ感じたことのない痛みを腹部に感じた。そして同時に両足の間からなんとも言えない不快な熱があふれ出すの感じ、その場にしゃがみこんだ。
「な・・・に・・・?」
もしかして、これって。小学校の保健体育の授業で習ってから数年が経ち、まわりのクラスメイトたちから話は聞くものの、透子はどこか他人事だった。
初めて勢太郎の手が透子の頭に触れたその日、透子の体は女になった。