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史絵は高校を中退している。なので娘の透子にはなんとしても高校を出てほしいと思っていた。透子の父親である男とは幼なじみといえば響きはいいが、ただの腐れ縁。妊娠したことを伝えた数日後、男の電話は繋がらなくなった。
産まれた娘の顔は父親に似ていた。育っていくにつれ史絵にも似てきたが、肌の白さやアーモンド型の目の形など、父親の遺伝子がはっきりと見て取れる。しかし性格は見事なほど史絵に似ている。
「生理?今?」
「・・・・・・」
透子は無言でうなずいた。中学三年でやっと訪れた体の変化は本人にとってはめでたくもなく、煩わしさしかなかった。
「下着汚れたなら洗濯機に入れておいて。お腹は?痛む?」
「痛い」
「とりあえず薬飲んで。あと、トイレの上の棚にいろいろ用意してあるから、好きなの使っていいわよ」
透子はもういちどうなづくと、腹部を押さえたまま立ち上がった。自分の部屋に戻ろうとして、ふと足を止める。
「ねえ」
透子は顔だけ振り向いて、母親に向かって尋ねた。
「なに?」
「赤飯とか、いらないから」
「・・・・・・今日は普通に焼き魚の予定だけど」
「ならいい」
「体温めると痛みが和らぐわよ」
「うん」
女の体になることを透子は望んでいなかった。細身の体に胸の膨らみが目立ち始めた頃、史絵と下着を買いに行っても透子はうつむくだけでなかなか選ぼうとしなかった。史絵が勧めるレースやリボンのついた可愛らしいデザインには目もくれず、シンプルなグレーのスポーツブラを指して「これでいい」と言った。
唯一伸ばし続けているくせのないまっすぐな黒髪だけには気を使うが、制服意外ではスカートも穿かない。同級生が休日につけるネックレスやイヤリングにも、全く興味がなかった。
透子の好きなものは、本。小説を読み始めると周りの音が聞こえなくなるほど没頭する。今日も学校の図書室で借りてきた本を読もうと思っていたのだが、急に訪れた腹痛のせいでそれどころではなくなってしまった。制服のままベッドに横になり、背中を丸めそら豆のような形になった。
こんなのいらないのに、と透子は思った。生理が来ることで、透子の体はますます本当の女に近づいていく。ボディラインの変化をまわりに気取られたくなくて、制服以外は極力体の線を拾わない服を選んできた。夏の白いセーラー服から下着が透けるのが嫌でたまらず、どんなに暑くても濃紺のカーディガンを着続けた。同級生がスカートのウエストを折り込んで徐々に丈を短くしていくのに反して、透子は入学当時から一ミリも長さを変えていない。
北海道の田舎町であっても、中学生とはませているもので。透子のまわりでもすでに初経験もどきを済ませているクラスメイトはちらほらいた。その話の輪にわざわざ混ざっていかなくても、透子は男と女のそういうことについての知識はあった。それは、母親の史絵が勢太郎と付き合いだしたばかりの頃。喉の乾きを覚えて夜中に起き出した透子は、寝室からふらりと出てきた気怠げな母親の姿を見て察したのだ。
その日は、勢太郎が初めて透子の家に泊まった。史絵はいつものピンクのネグリジェを着ていた。勢太郎の姿は見えなかったので、史絵のベッドで眠っていたのだろう。史絵は閉め忘れたリビングのカーテンを閉じるために起きてきたらしい。両手でカーテンを合わせた母親は、キッチンに潜んでいた透子には気づかないまま、寝室へ戻っていった。
母親の嬌声を聞いたわけでも、ベッドのスプリングがきしむ音を聞いたわけでもない。それでも透子は、母親と勢太郎の間で起こったことを肌で感じた。そもそも史絵には独特の色気があるらしく、次々と男が寄ってくる。勢太郎と出合う前にも何人か恋人候補がいたようだが、選ばれたのは鹿山勢太郎だったのだ。
(女になんかなりたくない)
透子はぎゅっと、枕の端を握りしめた。別に勢太郎が嫌いな訳じゃないし、史絵がひとりで自分をここまで育ててくれたことにも感謝している。ふたりの関係性に反対もしていない。ただ自分が変化していくことが、気持ち悪いのだ。
小学校の保健体育の女性教師は「子供を産める体になるということは怖いことでも恥ずかしがることでもありません」と説明していた。それはそのころ、早めに初潮を迎えた女子生徒をからかう男子生徒がいて、問題になったことがあったからだ。胸が大きいことをからかわれ、トイレにナプキンの入ったポーチを持って行こうとすると「生理か」と聞かれたりした同級生が、翌日から学校に来なくなった。透子はそんな友達の様子を見ながら、いつか自分もこういう目に遭うのだろうか、と背筋が凍った。が、小学校時代は結局訪れず、その不安はまるごと中学に持ち越された。
さすがに中学生になると浅はかなからかい方をする男子生徒はいなくなった。が、逆に周りの友人たちが自ら「女」であることをアピールする生き物に成り代わっていることに透子は驚いた。わかりやすく男子生徒の前でしなを作る同級生を後目に、透子はただただ読書と勉強に没頭し、「女」にならないまま三年生までこぎ着けた。
「透子?」
ドアがノックされた。顔だけを持ち上げて、はい、と答えると、トレーにマグカップ、水のボトル、薬の箱を乗せた史絵が入ってきた。
「なに、まだ制服着てるの」
「痛くて動けない」
「生理重いのまであたしに似たのね。ココア作ってきたわよ」
透子は甘い香りにやっとの思いで体を起こした。史絵が作ってきてくれたココアはいつもより濃厚だった。
「薬飲んで少し寝たらいいわ。お腹がすいたら起きてきて」
「・・・・・・」
「そんなに痛いの?」
「・・・・・・やだ」
「なに?」
「生理、やだ」
「やだって言ったって、自然に来るものなんだから」
「・・・・・・・わかってる」
「重いからつらいかもしれないけど、うまく付き合っていくしかないの。すぐ慣れるから」
「明日学校休みたい」
「痛みは薬で収まると思うけど?」
「・・・・・・行きたくないの」
透子は史絵と目を合わさず、強く言った。滅多に学校を休まない透子。史絵は娘のいつもと違う様子に何かを感じ取り、うなづきながら言った。
「まあ、テストもないし、いいんじゃない?」
「・・・・・・ほんと?」
「うん」
「あ・・・りがとう」
「明日だけね。毎月はだめ」
「うん」
史絵はベッド脇のかごに畳んで入っていた透子のパジャマを手に取り、枕の横に置いた。
「明日、○×スーパーなんだけど、ひとりで平気?」
史絵は週に三日、スーパーのパートに出る。勢太郎の援助だけでも暮らしていけるのだが、働くことをやめると人間がだめになると言って、透子が小学生の頃から続けている。
「大丈夫」
「お昼ご飯、お弁当にしておいていくから」
「うん」
史絵が部屋を出て行き、透子は薬箱から白い錠剤をふたつ取り出し、口に放り込んだ。水をたっぷり飲んで、制服を脱いだ。ふわふわした素材の水色のパジャマは史絵が買ってきてくれたもの。手早く着替えて布団に入ると、薬のおかげなのかすぐに睡魔がやってきて、透子は瞼を閉じた。
翌日。
史絵は前日に言ったとおり、透子の昼食を詰め込んだ弁当をキッチンのテーブルに置いて仕事に出た。透子は十一時まで寝て、空腹を覚えて起き出した。パジャマのまま階下に降りようとしたが、寒いので部屋着に着替える。ブラカップのついたキャミソールを足下から履くように引き上げ、その上に薄手のトレーナーを重ねる。スウェットパンツと靴下を履いて一階に降りる。
静まりかえったリビングを通り過ぎキッチンに行くと、赤いペイズリー柄のハンカチで丁寧に包まれた弁当箱がおいてあった。触れるとまだほんのり暖かい。包みを開けて蓋を持ち上げると、透子の好きなカニクリームコロッケがふたつ、視線を合わせてきた。今日は特別なのがひと目でわかる。コロッケの横にミートボールがきゅうくつそうに身を寄せ合っているからだ。いつもの弁当では一緒にならない一軍メンバーたち。アスパラとプチトマト、ちくわの中にキュウリを入れたのが、ミートボールの脇を固めている。主食はふりかけのかかった俵型の小さなおにぎりが三つ。透子はダイニングテーブルの椅子を引き、弁当箱の前に席を取った。いただきます、と言って手を合わせてトマトから口に運ぶ。
昨晩は結局薬が効いて、そのまま朝まで寝た。夕飯を食べなかったからかなり空腹だった。史絵はそれを見越してか、いつもよりも一回り大きな弁当箱に詰めてくれていた。水も飲まずに透子は弁当をぺろりと平らげ、ふう、と息をついた。再び手を合わせて、ごちそうさま、と言う。その時、玄関のインターフォンが鳴った。
透子は、出るかどうか悩んだ。もし隣の寺山だったら、学校を休んだのか、体調が悪いのか、史絵はどうした、といろいろ聞かれそうだ。でも宅急便だったら?このへんは田舎なので配達員の数が少ない。タイミングを逃すと翌日まで受け取れなかったりする。透子は立ち上がり、早足で玄関に向かった。
「はーい」
がちゃ、とノブを回してドアを押し開けると、まるで透子が出てくるのを見透かしていたかのような表情をした男が立っていた。