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「あ・・・・・・」
「透子」
勢太郎だった。手に紙袋をふたつ下げ、目を丸くする透子を見下ろしていた。
「史絵から聞いた。風邪気味なんだって?」
初潮だとは伝わっていないらしく安心した。はい、と小さく答えると、勢太郎は見舞いだといって片方の紙袋を透子に手渡した。のぞき込むと、大きめのケーキの箱とその上にいちごのパックが乗っていた。
「ドーリスのケーキといちごだ」
ドーリスとは町で一番美味しいケーキ屋だった。史絵が頼んだのだろう。勢太郎は紙袋を差し出すだけで家にあがろうとはしなかった。
「あ、あの、上がっていかれますか」
「え?」
「ケーキ・・・・・・多分、母は食べないので」
たくさんケーキを貰っても史絵は甘いものを食べない、という意味で言ったのだが、勢太郎はふっと笑った。
「これは透子に買ってきたんだ」
「一気に全部は食べれません」
「毎日一個ずつ食べたらいい」
「固くなっちゃいます」
「・・・・・・なるほど」
何がおかしいのか、勢太郎はくすくす笑った。
「それじゃあ一緒に食べようか。おじゃまするよ」
勢太郎はそう言って靴を脱いだ。透子は廊下にかかった丸い鏡に映った自分の姿を見てぎょっとした。髪の毛が不格好にあちこち絡まっている。勢太郎はよく、このひどい寝癖を見て吹き出さなかったものだと思った。洗面所に寄って軽くブラッシングし、後ろでひとまとめに結わえてからキッチンに戻った。勢太郎は先にリビングのソファに座っていた。
透子はインスタントコーヒーを淹れたマグカップと一緒に、ケーキの箱ごとリビングに持って行った。
「透子、好きなの選びなさい」
「・・・・・・じゃあこれ、もらいます」
透子は大きないちごの乗ったショートケーキを選んだ。他にはモンブランとガトーショコラ、桃のタルトが入っていた。
「俺はこれにしよう」
勢太郎は桃のタルトを選んだ。コーラルピンクの果実のケーキは勢太郎に似合わない。透子は桃をフォークで指す勢太郎の横顔をそっと盗み見した。
「熱は?」
半分ほどケーキを食べた頃、勢太郎がぽつりと言った。
「・・・・・・ないです」
それならよかった、と勢太郎は言った。
史絵は娘が初潮になったこと、それもそのことを透子が受け入れられないでいることを知っていて、勢太郎に言うような人間ではない。でも、透子はなぜか事実を勢太郎が知っているような気がした。嘘をつくのは後ろめたいが、本当のことは絶対言いたくなかった。
「そうだ、これも持ってきたんだ」
もうひとつの紙袋から勢太郎は一冊の本を取り出した。テーブルに乗せられた分厚い本の表紙を見て、透子は思わず、わあ、と喜びの声をあげた。
「確かこれ、好きだっただろう」
勢太郎が持ってきてくれたのは、中世ヨーロッパの絵画や彫刻が載っている洋書だった。史絵が勢太郎とつきあい始めたころ、一度だけ一緒に行った勢太郎のアトリエで見つけたものだ。ふたりが仲むつまじく話している横で、透子はその本に夢中になっていた。
「貸してくれるんですか?」
「いや、あげるよ」
「えっ」
「これも見舞いだ」
「でも、こんな高価な本、」
相場を知らなくても、装丁の豪華さでこの本が高額なことは透子でも想像がついた。
「本棚で埃を被っているより透子に読んでもらったほうがいい」
「ほ、本当に?本当にいいんですか?」
「体調が良くなってから読むんだぞ。透子はすぐに根を詰めるからな」
「ありがとうございます!」
今日一番の大きな声で透子は言った。ケーキよりも、冷蔵庫に入れたいちごよりも、透子にとってはこの本がなによりの見舞いだった。ほくほくしている透子の様子に、勢太郎は満足気に立ち上がった。いつのまにか勢太郎の皿のケーキはなくなっていた。
「じゃあ俺は帰る」
「あ、」
「養生しろよ」
「は、はい」
勢太郎は透子の頭をぽん、と叩いた。叩いた流れで優しく後頭部をひとなでされる。この一連の動作をするとき、勢太郎はまさに父親の顔をする。史絵と結婚する気はなさそうだが、たまに透子は勢太郎が父親になることを想像してみたりする。
門の前まで送ろうとしたら風邪気味なんだからやめなさいよ、と優しく諫められた。仕方なくドアの前で見送ると、ばたん、という車のドアを閉める音に続いて、ブロロという外車特有の主張が強いエンジン音が響いてくる。
透子はリビングに戻り、勢太郎の食べ終わったケーキの皿とフォーク、クリームのついたフィルムをキッチンのシンクに下げた。ドーリスのケーキの味は間違いない。まだじんわり残る下腹部の痛みを紛らわせてくれた。透子は自分のショートケーキの皿も下げ、まとめて水で流す。冷蔵庫にガトーショコラとモンブランの入った箱をしまい、濡れた手を拭いてリビングに戻った。
皿を洗って水滴をただちに拭き取り、もとあった棚に戻しておかないと史絵に小言を言われる。でも透子は、今、勢太郎に貰った本を読みたくて仕方がなかった。読むと言っても英語で書かれているので、もっぱら写真を見ることが主だった。久しぶりに手に取ったその本はずっしりと重く、一枚一枚のページは上質な紙だが、そこそこ年季が入っているのでいい具合に柔らかくなっている。
勢太郎は石膏職人なので、この本の中にもたくさんの石膏像が載っていた。有名なミロのヴィーナスを筆頭に、ありとあらゆる美しい彫刻を楽しめる。透子はほくほくしながら一枚ずつページをめくった。
透子が初めてこの本に触れたときにたまらなく惹かれたのは、「ヴェールに包まれたキリスト像」という彫刻の写真だった。ジュゼッペ・サンマルティーノという人の作品らしい。ひとつの大理石から削り出した彫刻だというのに、薄いヴェールを顔に被っているように見える繊細な美しさが、透子の心を鷲掴みにした。端正な顔つきのキリストはわずかに膝を曲げて仰向けに横たわっている。磔にされたキリストが十字架から降ろされた状態なのだ、と勢太郎が透子に教えてくれた。苦しみから解放されたキリストなのだろうが、透子の目にはまだ彼が苦しんでいるように見えた。
そのページにたどり着いた透子は、ほう、とため息をついた。勢太郎のアトリエでは短い時間しか見ることが出来なかったが、これからは見たいときにいつでも、どれだけでも鑑賞することが出来るのだ。嬉しくて仕方ない。
「何見てるの?」
どのくらい時間が経ったのかわからないが、気がつくとリビングの入口に史絵が立っていた。
「あっ、お、おかえり」
「勢太郎さん、来た?」
「来た・・・・・・」
特段やましいことがあるわけでもないのに、透子は慌てて本を閉じた。やましいことといえば、ケーキの皿をまだ洗っていないことぐらい。
「風邪引いて寝込んでるから、様子見てほしいって頼んだのよ」
「ケーキといちご、持ってきてくれた」
「ドーリスの?」
「そう」
「よかったわね」
「まだお皿洗ってない」
「・・・・・・今日はいいわよ。で、その本は?」
透子は気づくと、ずっしりと重たい本を胸の前でしっかり抱えていた。
「お見舞いだって・・・・・・くれた」
「くれたの?」
「うん」
「・・・・・・・」
史絵は家賃や食費など必要最低限の援助以外の勢太郎からの「施し」を丁重に断る。それは透子に対する贈り物も同様だった。ケーキやいちごは食費のうちに入るのか何も言わない。見るからにヴィンテージものの洋書を勢太郎が中学生の透子に与えたことを、史絵はどう思うのだろうか。返しなさい、と言われるのではないかと透子は身構えた。
「お見舞いだって言うなら、仕方ないわね」
「・・・・・・返さなくていい?」
「返す方が失礼よ。簡単に買えるようなものじゃないから、大事にしなさい」
「うん」
透子の体から力が抜けていく。これでヴェールに包まれたキリストは透子のものになった。キッチンでは史絵が鼻歌まじりに汚れたケーキ皿を洗っていた。