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透子はこの町唯一の高校に入学した。一学年四クラス、同学年はみな顔見知り。部活動の数も少なく、透子はその中でも人の少ない美術部に入った。三年生が四人、二年生が五人、一年生は透子を含めて四人。三年の副部長と二年生のふたりが男子、あとの十人が女子だったのも透子には好都合だった。というのも、透子は高校に入ってすぐに男子生徒の目を引くようになった。さらさらのストレートヘアと長いまつげに縁取られた大きな瞳。リップを塗らなくても薄赤い唇。整いすぎた容姿とは裏腹に透子は無表情で淡泊、自分から友達の輪に入っていくタイプではなかった。その一匹狼的な佇まいが「クールビューティ」だとか言われて、本人の意志に反して男子の関心を集めてしまっていた。
入学して数ヶ月、三人の男子生徒に告白された。しかし透子に彼らへの興味はなかった。あっさりと断るも、二ヶ月に一人くらいのペースで透子を好きだという新たな男子生徒が現れる。正直透子はうんざりしていた。初潮が来たときから「女」として見られることに嫌気が差している。高校生ともなれば同じクラスの女子生徒の三分の一が初体験を済ませていることも知っているが、透子にとってはどうでもいいことだった。
史絵は透子が高校に上がる頃から体調を崩しがちになった。続けていたパートも辞め、家にいることが多くなった。それにともなって勢太郎が透子の家に訪ねて来ることが多くなっていた。
高校生になった透子は、母の恋人である鹿山勢太郎が年を重ねてますます美丈夫ぶりを増していくことに驚きを隠せずにいた。幼い頃にはわからなかった大人の男の渋みや余裕のある包容力などに気づけるようになったこともある。が、透子にとって勢太郎はあくまでも母の相手であり、父親代わりであることには変わりなかった。
「おかえり」
学校から帰ってきた透子を迎えた史絵は今日も顔色が悪い。
「ただいま」
靴を脱ごうとして三和土に視線を落とすと、勢太郎の焦げ茶色の革靴が揃えて置いてある。透子は靴を脱ぎ、勢太郎に挨拶をしようとリビングに向かおうとした。すると、背後から史絵がこう言った。
「透子、ちょっと部屋に居てくれる?」
「え?」
「大事な話をしてるの。終わったら呼ぶから」
「・・・・・・わかった」
史絵の表情が暗いので、透子は理由を詳しく聞くことはやめた。そのまま階段を上がり、部屋に入る。制服を脱いで部屋着に着替え、ベッドに仰向けに寝転がる。
不穏な空気だった。勢太郎には会っていないが、リビングからテレビの音もしなかったし、なにより史絵はいつになく青ざめていた。喧嘩だろうか?でも透子は、彼らが言い合ったりしているのを見たことがなかった。勢太郎はいつでも穏やかで、史絵はそんな勢太郎に従順だった。
結局その日は小一時間ほどで勢太郎は透子と顔を合わせずに帰って行った。史絵は普段の様子に戻り、もうすぐ夕飯よ、と言って笑った。母子で囲む夕食のテーブルにはなんの変化もなく、透子は黙々と食べた。来週からテストが始まる。食べたら勉強しないと、と思っていた。
透子の成績は良く、テスト前に必死に勉強しなくともそこそこの成績は取れた。だからなのか、史絵もうるさく言わず、塾に通うことも強要しなかった。透子は食べ終わった食器をシンクに下げ、自分の分だけを手早く洗った。そしてすぐに部屋に戻ろうとすると、史絵が呼び止めた。
「透子、待って。話があるの」
それなら食べているときに話せばいいのに、と思ったが口には出さずに透子はうなづいた。もう一度ダイニングテーブルで史絵と向かい合って座り、黙って母親の顔を見つめた。この話題に勢太郎が関係していることはすぐにわかった。
史絵はわかりやすく一呼吸し、いつもよりトーンの低い調子で話し始めた。
史絵は子宮癌を発症していた。それもステージ4、いたるところに転移が見られ、手術も難しいと言われたという。母親の体調不良がただの風邪や疲れではないことは気づいていたが、本人がなんともない、と言い張るので透子にもどうすることもできなかった。
「ガン・・・・・・」
透子はうまく発音出来なかった。何か病気なのでは、と思ったことはあっても、まさか癌だなんて。史絵は困ったように笑って、心配かけてごめんね、と言った。
「謝らないでよ・・・・・・なんで謝るの」
「だって、透子の大事なときなのにこんな話・・・」
大事なとき、というのは来週のテストの成績次第で札幌の大学に推薦してもらえるかどうかが決まるからだ。芸術学部のある大学に行きたいと言ったら、史絵も勢太郎も喜んでくれていた。
「こんなって言わないでよ。病気のほうがよっぽど大事でしょ」
「・・・・・・まさかここまで悪くなってるとは思わなくて」
「え?」
透子の喉が上下する。
「悪くなってるとはって・・・・・・知ってたの?!」
「・・・・・・・」
「いつから?!なんで黙ってたの?!」
ごめん、と史絵は視線を落とした。そして、消え入るような声で心配をかけたくなかった、と続けた。透子は膝の上で両手を強く強く握りしめた。爪が食い込む。
気持ちの整理がつかないまま、透子は必死に次の言葉を絞り出した。
「・・・・・・入院するの?」
「うん」
「いつ?」
「来週末」
「らい・・・・・・しゅう・・・・・・」
情報量が多くすぎてついていけない。言葉をリピートするだけで精一杯の透子に、史絵は思いも寄らないことを言った。
「透子のことは、勢太郎さんに頼んであるから」
「・・・・・・は?」
素っ頓狂な声が出た。
「頼むって、何言ってんの?」
つい口調がきつくなる。しかし史絵は嫌な顔もせず、淡々と答えた。
「勢太郎さんの家は大きいし、お手伝いさんもいるし、学校に通うのもそんなに遠くないから」
「待って、待ってよ、どういう・・・」
「透子ひとりでこの家に残るわけにはいかないでしょ」
「残るから!ひとりで平気だし!」
「何言ってるの、高校生の女の子にそんなことさせられるわけないでしょ」
「でも、だからって何で」
「他に頼れる人いないんだから、仕方ないでしょ」
「そんな・・・・・・そんなの・・・」
この家に住んで、時々会いに来る勢太郎と接するぶんには何の問題もない。が、一緒に住むとなると話が違ってくる。史絵と勢太郎は結婚していないのだし、透子は居候ということになってしまう。
「ちゃんと元気になって戻ってくるから、それまで勢太郎さんの世話になっててほしいの。ずっとじゃないから」
「・・・・・・本当に?」
「うん」
「・・・・・・わかった」
史絵は椅子から立ち上がり、透子の座る椅子の横まで来た。そして史絵は透子の頭を自分の胸に抱きしめた。「戻ってくる」という台詞の奥の悲しさに透子は気づいていた。一人娘を溺愛しても甘やかすことのない史絵と、甘えることが苦手な透子。史絵の細い指で髪を優しく撫でられ、透子の目に涙が滲んだ。母一人子一人で生きてきた不器用なふたりは、不穏な未来を見ないようにして、お互いをしっかり抱きしめてひとしきり泣いた。
翌週、史絵は隣町の総合病院に入院し、透子はテスト中も心ここにあらずだった。