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透子にあてがわれたのは、二階の一番奥の広い洋室だった。おそらく前もって準備されたと見える、新品の匂いのする家具が並んでいた。自宅の透子の部屋の倍はある大きな箪笥に制服と部屋着、よそ行きの服を仕舞い、デスクの上に教科書や気に入った本を並べてみても借りてきた猫のように落ち着かない。ここでしばらく暮らすのかと思うと気が沈んだ。それでも勢太郎に心配をかけないために、透子は出来るだけ彼の前では明るく振る舞った。そう楽しくもない学校生活をおもしろおかしく脚色して、毎日の夕食時に話すのを日課とした。それは透子なりの、二つ返事で透子を受け入れてくれた勢太郎への気遣いだった。
透子が勢太郎の家から登校するようになってひと月が経ったころ、学校での自分のポジションが変わったことに気づいた。もともと友人は多くなかったが、明らかに周りが透子と距離を置き始めた。ひとりが苦にならない透子は最初のうち、この現象に気が付かなかった。机がいたずら書きで真っ黒になっていることがあってはじめて、自分が「いじめ」のターゲットになっていることに気が付いた。
どうしていじめられるのか、理由がわからなかった透子をある日担任が職員室に呼んだ。
「お母さん、入院したんだって?」
透子はそれを誰にも言っていなかった。史絵が担任に伝える、と言ったが、自動的に勢太郎の家に世話になっていることが知られてしまうので、黙っていて欲しいと頼み込んだ。透子の家と勢太郎の家はそう離れておらず、一緒に登下校する友人もいなかったので、違う場所に帰っても誰にも気づかれないと思っていた。しかし。
「・・・・・・・はい」
「どうして黙ってたんだ?いろいろ大変だろう」
なんで知ってるんだ、と思ったが、史絵の入院している病院の院長の息子が、一学年上にいることを思い出した。
「別に困っていることはありません」
「そんなはずないだろう」
担任は少し強い口調になり、透子の話を断ち切った。こほん、と咳払いをしてから、わずかに口調を緩めて続ける。
「母子家庭なんだし、お前はまだ高校生だ。大人の助けが必要だろう」
「・・・・・・」
「それで、だけどな」
もう一度咳払いをした担任教師は、職員室内をちらりと見回してから、デスクから斜めに体を乗りだし、小声で言った。透子は嫌な予感がした。
「今、どこで暮らしてるんだ?」
知っているくせに、と透子は思った。それなのに自分が話す必要があるのかと。
「おまえが○○町の・・・・・・鹿山勢太郎の家を出入りしていると言っている生徒がいてな」
勢太郎は有名人だからか、フルネームで呼び捨てされることが多い。担任はさも、生徒のことを心配している、という体で話を続けた。
「まあ、何度か遊びに行ったくらいなんだろうけど・・・・・・鹿山さんは親戚じゃないよな?」
母と勢太郎のことは近所では有名だが、この担任教師がどこまで知っているのかは想像がつかない。そして真実を話したところで信じてくれないことはわかっていた。
「鹿山さんは親戚じゃありません」
透子が素っ気なくつぶやくと、そうだな、と担任はうなずいた。
「まだ未成年なんだ、お母さんが入院中ならしかるべき場所で守って貰うべきだろう。お母さんの兄弟とか・・・ちゃんと血の繋がった親戚の家に世話にな・・・・・・」
「親戚はいません」
透子は担任の言葉を遮った。強すぎる透子の視線は、無責任な大人をひるませるのには十分だった。透子は続けた。
「母の両親も兄弟も本州にいますし、ほとんど会ったことがありません。父は蒸発して連絡もつかない状態なので、道内に頼れる人はいません」
「・・・・・・」
「誰にも頼れないので、母の友人の鹿山さんにお世話になっているんです」
「しかし鹿山さんはあまりいい噂をきかな・・・・・・」
「じゃあ先生が助けてくれますか」
担任は急な切り返しに息を呑んだ。この男が新婚で、それも授かり婚なのだと同級生が話していたのを聞いた。もうすぐ子供が生まれる幸せ一杯の人間に、透子のどうにもならない状況が理解できるわけがない。
「そ・・・・・・それは・・・・・・」
「助けてくれないのに、やめろとだけ言われても困ります。母の入院でお金に余裕はありませんし、鹿山さんに助けてもらえないと学校にも来れません」
「しかし・・・・・・・」
「私が鹿山さんの世話になるのがまずいのなら、学校に来てもらいます。何がいけないのか先生から話してください」
「い、いや、それは」
担任は言葉を失った。そしてもぐもぐと何かをつぶやいてから、わかった、教室に戻りなさい、とぞんざいな手つきで透子を追い払った。
透子が職員室を出ると、同級生女子が三人ほど廊下の先でこっちの様子を伺っているのが見えた。余計なことを言ったのはおまえらか、と心の中で毒づきつつ、透子が大股で近づいていくと、彼女たちは蜘蛛の子を散らしたように走り去っていった。
翌日から、透子は学校で友人と呼べる相手がいなくなった。
「元気がないな」
ある日の夕食、勢太郎は透子にそう話しかけた。普段通り、ありもしない学校でのあれこれを一通り話し終わった矢先だったので、透子は驚いた。ばれるはずがないと高をくくっていた。しかし目の前の勢太郎の表情は真剣そのものだった。
「そ・・・・・・んなこと、ないよ」
この頃には敬語ではなく、本当の親子のように透子と勢太郎は会話をするようになっていた。
「無理しなくていいんだぞ」
「無理してない」
「・・・・・・高校はあと一年だろ。卒業すれば、お前の好きなことを学べるんだ」
透子には、「気をつかって楽しくない高校生活を無理に脚色しなくてもいいんだぞ」という勢太郎の本当の声が聞こえた。
「今の学校が辛いなら、転校したっていい」
「もう二年だよ?」
「無駄な我慢をする必要はないさ」
「・・・・・・ちゃんと卒業まで通う」
「それなら、嫌なことや辛いことを押し殺さないで、吐き出してごらん。楽になるから」
この人は、全て知っているのだと透子は思った。つい先日入院中の母に会いに行ったが、心配をかけたくないあまりにひときわ明るく話した。いつもの脚色も幾分大げさになっていた。そんな透子の演出に勢太郎も合わせてくれていたのだ。
「俺のせいで、すまないな」
勢太郎が悲しげに微笑んだ。そんな顔は知らない。大人が悲しそうに笑うのが、透子は苦手だった。
「鹿山さんのせいじゃない」
「透子」
「ガキなんだよ、みんなのほうが」
「・・・・・・透子は大人びてるからな」
「みんな話してること、テレビ番組とかアイドルのことばっかり。そんなの全然興味ないから話合わないし。最初から仲良くなんかできなかった。鹿山さんのせいなんかじゃない」
勢太郎はそうか、とだけつぶやいた。そうだよ、と答えて透子は皿の上の焼き魚を箸で乱暴にほぐした。見抜かれていたことへの少しの恥ずかしさと、それを上回る安心感。もうがんばらなくていいんだと思ったら涙がこぼれた。食事を作ってくれるのは、週に三日通ってくる家政婦の種村行子という女性だった。今夜のメニューは焼き魚とほうれん草のごま和えに、わかさぎの唐揚げ。それに具だくさんの味噌汁と、玄米ご飯。透子が来てから、食事のメニューは史絵の作るものに寄せてくれていた。
透子は涙が食事にかからないように、手の甲でぐいぐいと拭った。
勢太郎は、一度だけ透子に頼まれて参観日に出向いたことがあった。教室に入ってきた勢太郎は品のいいスーツに身を包み、母親たちの好奇の視線にもひるまず、まっすぐに透子の後ろ姿を見つめた。
透子は授業を進める担任の焦る顔を見て、胸がすく思いだった。どんな噂が広まっているのか知らないが、堂々と教室に現れた勢太郎の方が、中途半端な提案をする担任よりもよっぽど「まっとう」な人間に思えた。学校での状況が劇的に変わることはなかったが、勢太郎が参観に来てからは陰湿ないじめが少なくなった。透子も帰宅して、ありもしない物語を勢太郎に聞かせることはなくなった。代わりに透子は美術や芸術の話を勢太郎にせがみ、二人の間に話が尽きることはなかった。
透子が三年に進級した春、母親の史絵が闘病もむなしく、病院で息を引き取った。