メニュー
「透子」
勢太郎の声にも力がない。告別式を終え家に帰ってきた透子は、制服から着替える力もなくリビングのソファに座っていた。
「着替えたらどうだ。今、温かい飲み物を淹れるから」
透子は答えなかった。史絵の意識が無くなってから三日三晩、泣き疲れてもう涙も出なかった。勢太郎はキッチンから戻ると、透子の隣に座った。
「史絵は」
勢太郎が呟いた。
「痛みがひどく、かなり苦しんでた。きっと今頃、体が楽になってほっとしてるだろう」
透子はうなづいた。史絵は透子が来る日に、痛いだとか苦しいだとか言うことは無かった。病人特有の匂いを気にして、強力な消臭剤をベッドの下に隠していた。亡くなる一週間前、初めて透子は史絵の余命が少ないことを勢太郎から聞いたのだ。
「苦しんでる姿も見せてくれなかった」
透子は言った。勢太郎の大きな手が頭を撫でる。
「透子だって史絵に心配かけたくなくて、明るく振る舞ってただろう」
「でももっと・・・・・・頼ってくれても良かったのに・・・っ・・・」
「透子」
勢太郎はそっと透子を抱き寄せた。硬い胸に頭をごつんともたれ、透子はうっと嗚咽を漏らした。
「・・・・・・・何にも・・・出来なかったっ・・・・・・」
甘え下手な娘と強がりな母親。表向きには淡泊に見えても、互いに唯一の家族として支え合い、言葉には出さずとも深い愛情を抱いていた。
「それは違う。透子は、産まれてきただけで、親孝行なんだよ」
勢太郎の低い声が、胸の振動とともに響いてくる。史絵は透子へ、また勢太郎にも手紙を残していた。特に勢太郎には密かに頼んでいたことがあった。それは透子の将来のための計画だった。
史絵は亡くなる前、自分を勢太郎の正式な妻として婚姻届を出して欲しいと頭を下げた。
(これから死んでいく女がなにを言っているのかと思うでしょうけど、透子のためなの)
もう声に力もなく、顔色は青い。それでも懸命に上半身を起こし、史絵は言った。
(あの子はあたしがいなくなったら天涯孤独になってしまう・・・・・・叔父も叔母も頼ることは出来ないの。高校も行けなくなってしまうわ)
透子の性格上、施設などには行かないだろう、と史絵は勢太郎に話した。きっと学校をやめ、大学進学も諦め、アルバイトをしながら一人で暮らそうとする、とも。もとより透子は母が退院したらアルバイトをして大学の学費を返し、そして家計の足しにしてもらうため、札幌から仕送りをしようと考えていた。状況は変わってしまったが、透子はいずれ独り立ちするための計画を曲げるつもりはなかった。
勢太郎から史絵の考えを聞いた透子は、しっかりと彼の目を見てこう答えた。
「それで・・・・・・婚姻届けは?」
「まだ手元にある。透子に話してから提出するつもりだった」
「・・・・・・」
暗い表情のままの透子を、勢太郎は悲しそうに見つめた。
「俺の娘になるのは嫌か?」
「・・・・・・そうじゃなくて・・・・・・そうじゃ、なくて」
二度繰り返した透子は、自分の中にある感情にしっかりと蓋をして続けた。
「もうすこし時間がほしくて。もうしばらく母のことだけ考えていたいから」
「そうだな。透子のしたいようにしたらいい。婚姻届けは急がなくても大丈夫だ」
「鹿山さんの娘になるのが嫌なわけじゃないんです」
敬語に戻って透子は言った。勢太郎は透子の頭を撫でて、答えた。
「わかってる。俺に気をつかわなくていい」
「明日、一度家に帰ってもいいですか。荷物とか整理しないと」
「ああ、授業終わりに迎えに行くよ」
透子はうなづいた。史絵の遺品をひとりで整理するのは辛い。勢太郎がいてくれたら少しは悲しみが和らぐかもしれないと透子は思った。
史絵は、母でありながら、いつでも女だった。裕福でなくとも、持っている服の中でその日一番自分が綺麗に見えるものを選ぶ。近所に出かけるだけでも髪を巻くしリップも塗る。だからこそこの田舎で浮いてしまったのだが、そのポリシーが勢太郎の目に留まった。彼女は「女」であるということは武器になる、と伝えたかったように思えた。しかし残念なことに透子は女らしく生きることに抵抗があった。
生き方は違えど、透子は母のことは大好きだった。頭ごなしに怒ることのない史絵。何か伝えたいときも、淡々と言葉を繋げるだけ。だから透子もクールな性格に育った。べたべたする必要はない。母子はちゃんと愛し合っていた。今、透子は心にぽっかりと穴が開いていた。
(俺の娘になるのは嫌か?)
勢太郎の言葉が耳に残る。そうではない。透子は自分でも気づかぬうちに、勢太郎の魅力に惹かれていた。最初は芸術家であることがその理由だと思っていたけれど、次第に勢太郎の人間味に好感を持ち始めた。が、史絵のパートナーであるという事実が透子の気持ちを抑えこんでいた。しかし。
母親がこの世から去り、頼れるのは勢太郎だけ。淡い恋心などふたりの間には邪魔なだけだ。それにいずれは独り立ちするのだし、世話になるのは成人するまでの数年間だけ。割り切って暮らしていこうと決めた。
透子は自宅に戻り、史絵の遺品となる服やアクセサリーを仕分けした。勢太郎はリビングにいる。毎日少しずつ仕分けをするので、その間は本を呼んで待っていてくれることになっていた。透子自身は史絵が好むような柄物の洋服やきらきらしたアクセサリーなどに興味はない。特に古くなったものは躊躇なくゴミ袋に入れたが、箪笥の引き出しの中で、あきらかに他のものより大切に仕舞われてある一枚のワンピースに目が留まった。深い緑色の地に黒い百合の花がプリントされた、レトロなシャツワンピース。ウエストがきゅっと締まっていて、スタイルがよく見えるデザイン。その脇には、小さな木箱がひとつ。透子が中学一年の時、勢太郎が史絵の誕生日にプレゼントしたものだと記憶している。普段絶対に施しを受け取らない史絵が、そのワンピースだけは目を輝かせて喜んでいたのを覚えている。そして持っている服の中で、それが一番史絵に似合ったので、勢太郎と外出するときには必ずと言ってもいいほど着ていった。
透子はそのワンピースを持ち上げ、姿見の前に立った。絶対に似合わないだろうと思っていたが、体に当ててみて驚いた。透子の黒く美しい髪と、黒の百合はとてもバランスが良かった。ついでに小箱をあけてみると、おおぶりの真珠のイヤリングが一組。
透子はセーラー服の胸元に手をかけた。スカーフを止めた校章のブローチをはずし、スカートのホックもはずしてすとんと床に脱ぎ落とした。太腿の真ん中あたりの丈の白いスリップ姿になった透子は、史絵のワンピースに体を通した。足下から引き上げて、ひとつづつボタンを留めていく。真珠のイヤリングもつけた。すべて留めて姿身を見ると、思っていたより胸元がVの形に大きく開いていて、透子の女らしいデコルテがが露わになっていた。普段は胸や腰が目立たない服を選ぶ透子。「女」を強調するようなデザインのものは避けてきたはずなのに、なぜかこの服には嫌悪感はなかった。それはワンピースを着た自分が史絵に似ていたからかもしれない。
透子は遺品の仕分けを続けた。寝室に置かれた史絵の持ち物を一通り仕分け終わったあたりで、リビングに戻った。ドアを開けて、振り向いた勢太郎が驚いた顔をしているのを見て、透子は自分が史絵のワンピースを着ていることを思い出した。
「透子・・・・・・」
「あっ、あの・・・・・・」
勝手に史絵の服を着てきたことをたしなめられるかと思い、透子は体を固くした。しかし勢太郎は嬉しそうに笑った。
「よく似合うな。やっぱり親子だ」
「ご、ごめんなさい、着替えます」
「何で謝る?史絵もきっと喜んでる」
「でもこれ、すごく気に入ってたから・・・・・・」
「だからだよ。透子が着てくれれば嬉しいだろう」
そうだろうか、と思いながら透子はうつむいた。史絵が喜ぶかどうかはわからない。なぜなら史絵は、勢太郎と透子をはっきりと区別して愛していたからだ。もしも透子が勢太郎に恋愛じみた感情を持っていることを知られたら、今でも許してもらえないのではないか、と思ってしまう。
しかし勢太郎の喜ぶ顔とワンピースの揺れる裾を見て透子は、これでいい、と思った。