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「なあ」
頭上から聞こえる低い声に、今日で何回目だろうと透子は小さくため息をついた。三年になり初めて同じクラスになった足立という男子が、休み時間になる度に透子の机の前に立つ。
「・・・・・・なに」
「やっとこっち見た!」
「あたしに用事?」
「だからここにいるんだけど」
足立幸弘というその同級生は背が高く、クラスのムードメーカー的な明るい少年だった。透子も、自分とは違う世界に生きる人種だと思っていた。だからこそ、ここ数日の足立の急激な距離の詰め方に透子は戸惑っていた。
「あたしは用事ない」
「俺があんの。なあ、今日こそはつき合えよ」
「・・・・・・やだ」
「なんで?女子はみんな甘いもの好きじゃねえの?」
「・・・・・・・」
足立は毎日、放課後にデートをしてくれとせがんでくる。今週は少し離れたショッピングモールに新しく出来たフルーツスムージー専門店に行こう、というのがテーマだった。甘いものは嫌いじゃないが、わざわざ足立と連れだって家と反対方向のモールに行く意味がわからない。
「何度も言ってるけど、行かないから」
「なんで?」
「なんでって・・・・・・行かないから行かないの」
「急いで帰んなきゃならない用事あんの?」
「・・・・・・」
「わかった、じゃあせめて一緒に帰ろうぜ」
「足立、反対方向じゃなかったっけ」
「別にいいよ、送ってから帰るから」
「迷惑」
「そんなこと言う?冷たいなあ」
「とにかく話しかけてこないで」
これだけ冷たくあしらっても足立は笑顔を崩さず、「じゃあ帰り、生徒玄関のとこで待ってる」と言い残し、透子の机を離れていった。一人になってほっとした反面、また面倒なことになるな、と小さくため息を吐いた。足立に言い寄られるようになってから、落ち着いていた陰湿な嫌がらせが再燃し始めていた。外靴の底に大量のガムが張り付いていたり、雨の日に傘の骨が折られていたり。どうせ間もなく卒業だからと気にしていなかったが、面倒なことには変わりなかった。どうやら足立は女子人気があるようだ。
終業ベルが鳴る頃には、足立が待っていることも忘れかけていた。鞄を持って立ち上がろうとしたとき、ふと頭上が暗くなって透子は顔を上げた。そこには五人ほどの同級生女子が立っていた。
「ちょっといいかな」
一番小柄な、髪色の明るい女子が言った。ほんのりファンデーションと透明のマスカラ、整えた眉と色付きリップが標準装備の彼女の名前は岡田茉莉。わかりやすく足立に好意を持っている女子の代表だ。他の四人は岡田と仲のいい、いわゆる取り巻きというやつだった。
「・・・・・・なに?」
透子が立ち上がりながら答えると、ずい、と近寄られてすり抜けるのを阻まれた。
「足立くんとつき合うの?」
「つき合う?」
「鈍いのか、それとも性格が悪いのか、どっち?」
「意味がわからないんだけど」
「足立くんのこと好きじゃないなら、はっきり伝えたら?思わせぶりなことしてないで」
思わせぶり?誰が、いつ、どこで?透子の苛つきが一瞬にして最高潮に達した。あれ以上明確な断り方がどこにあるというのか。
「いつもはっきり伝えてる。あたしは足立のことなんとも思ってないから。岡田さん、足立を好きなら告白すれば?」
一瞬で岡田の顔が赤くなった。黙ってしまった彼女の代わりに取り巻きたちが目を吊り上げ、さらに詰め寄ってきた。
「あんたがはっきり足立くんを振らないからでしょ!」
「・・・・・・は?」
「茉莉が告ったら、あんたのこと好きだからつき合えないって言ったんだから!だからとっとと・・・・・・」
ちょっと、やめてよと岡田が涙声を出した。あまりにもくだらない。透子は肩で取り巻きたちを押し返しながら教室を出た。待ちなさいよ、と後ろから追いかけてくる。生徒玄関が見えた瞬間、後ろから髪を掴まれた。
「痛たっ!」
「待てっつってんだろうが、止まれよ!」
急に口調が荒くなった一番大柄な取り巻きは確かバレー部だ。力一杯腕も掴んできた。その後ろから岡田と他の三人も走ってくる。足立が帰りに生徒玄関で待ってると言っていたのを聞いていたのだろう。告げ口されるとでも思ったのか、必死の形相だ。
「離してよ!」
もがけばもがくほど、髪が引っ張られる。ぶち、ぶち、と嫌な音がして悲しくなる。髪だけはいつも丁寧にケアしていたのに、なんでこんなことになるのか。だから「女」は嫌なのだ。
どん、と靴箱に背中を押しつけられる。外は雨が降り出していて、生徒が行き来した分タイルが濡れていて滑りやすくなっていた。「このこと足立くんに言ったらただじゃおかないから」と岡田が顔を近付けてくる。言わなくたってすぐ近くにいるのに、無駄な足掻きだ。どちらにしても透子にはどうだってよかった。そして次の瞬間掴まれていた腕をいきなり放され、透子はその場にべたんと尻餅をついた。
夏服の薄手のプリーツスカートが濡れて、下着まで冷たさが上がってくる。気持ち悪い、と独り言をつぶやきながらのろのろと立ち上がった。岡田たちは振り返りもせず教室に戻っていく。靴箱を開けると、革靴の中になみなみと水が入っていた。これも岡田たちなのか、それとも他の女子生徒なのか。考えるのが面倒臭くなり、透子は乱暴に靴を逆さまにした。
「えっ」
水を捨てるばしゃんという音と同時に、聞き覚えのある声がした。どうしたんだよ、それ、と言いながら足立が駆け寄ってきた。透子は答えずに、水浸しの靴に躊躇なく足を入れた。ぐちゅ、と嫌な音がする。
「靴に水って、どうして、えっ?」
生まれて始めてそんな光景を見たのか、足立は素っ頓狂な声を出した。その声色に透子はさらに苛ついた。明るくていつも笑っていて、クラスの中心にいる足立に、靴のなかに雨水を入れられる状況が理解出来るわけがない。透子は足立の横を通り過ぎ、校舎を出た。降りかたが強くなってきた雨が容赦なく透子に降り注ぐ。
「おい、待てって!傘、傘!」
足立がばしゃばしゃ水を蹴りながら透子に走り寄ってくる。今朝、傘を持ってきたはずだが、どうせそれも使い物にならないだろう。ふっと黒い大きな傘が差し出されたが、透子は持ち主の顔を見上げてこう言った。
「あたしに近づかないで」
「え?」
「言ったでしょ。迷惑だから」
あんたのせいだよ、と心の中で悪態をついた。呆然と立ち尽くす足立を残して透子は歩き出す。しかしまた足立は追いついて傘を差しだしてくる。
「風邪引くだろ!送ってくって!」
「いらない」
「おい!」
透子が早歩きでどんなに距離を取っても、足立はすぐに追いつく。その攻防を繰り返すうち、気がつけば勢太郎の家が見えてきた。信号で足止めをくらい、とうとう足立が透子の手首を掴んだ。雨で濡れたセーラー服は体に張り付き、下着の線が透けてしまっていた。足立に近くに立たれるのが嫌で、手首をふりほどいて透子は上半身を自分の腕で抱きしめて隠した。
「なあ、ちょっと、話きかせろよ」
「話なんかない」
「誰にやられたんだよ!俺が言ってやるから、名・・・・・・」
「うるさい!」
足立の言葉を遮って透子は叫んだ。
「まだわかんない?!あんたのせいでこうなってるの!!」
「お・・・・・・俺?」
それ以上はもう説明する気力もなかった。水浸しの靴を引きずって、青信号に変わった横断歩道を走る。勢太郎の家の門をくぐり、ドアベルを鳴らす。いつもは一回しか鳴らさないが、今日は続けて三回鳴らした。驚いたことに足立は門の前で立ち止まらず、ドアの前まで着いてきた。げんなりした透子の前でドアが開いた。お手伝いの種村行子が出迎えてくれるはずだった。が、今日は違った。
「透子!」
そこには目を見開いた勢太郎が立っていた。白いシャツにグレーのカーディガンを羽織っている。びしょ濡れの娘と、同じく雨に降られた同級生らしい少年。傘は持っているものの、役に立っていないことは一目瞭然だ。透子はふらふらと勢太郎に近づき、彼の腕の中に収まった。
「・・・・・・君は、透子の同級生かな」
勢太郎の低い声に、足立は背筋をのばし、はい、足立と言います、と答えた。
「送ってきてくれたのかい?」
二人ともずぶ濡れの不自然な状態を、勢太郎は責めるでもなく尋ねた。が、その腕にしっかりと透子を抱きしめていた。
「あ、あの、俺は・・・・・・」
足立がどもりながら説明をしようとしたとき、勢太郎は彼の視線を遮るように、透子の背中を自分のカーディガンで覆った。
「今、タオルを持って来させるよ。透子、おいで」
勢太郎は、しがみつく透子を促した。勢太郎から離れて歩き出した透子の背中に足立が叫んだ。
「あ、あの、ごめん、なんかよくわからないけど俺のせいで、でも俺、お前のこと本気で・・・・・・・」
透子は足を止めた。ゆっくりと振り返ったが、言葉は出なかった。
本当のところは、足立に罪はない。だからといって今さら岡田茉莉のことを全て説明するのもだるい。透子はもう、本当にこの一件についてはどうでもよかった。そして勢太郎の腕がそっと透子の背中に添えられて、透子は決めた。
「足立」
透子は傍らに立つ勢太郎の腕を取り、自分の胸の前で交差させた。後ろから抱きしめられている体勢を自ら作り、まっすぐ足立の目を見て言った。
「あたし、ガキに興味ないの」
足立は口を開けたまま、立ち尽くしていた。屋敷のドアは締まり、少しして足立にタオルを持ってきたのは勢太郎でも透子でもなく、お手伝いの種村行子だった。
その日を境に、透子は高校へ行かなくなった。