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「透子、これも読んでみるといい」
勢太郎が差し出したのは、数冊の洋書だった。
「難しくて読めないよ」
「わからないところは教えてやる。辞書を使って少しずつ読んでごらん。学校の文法なんかよりずっと役に立つぞ」
「・・・・・・ありがとう、読んでみる」
ずぶ濡れになって帰ってきた夜、もう学校に行きたくない、と言った透子に勢太郎はひとこと「わかった」と答えた。勉強はしたほうがいい、という勢太郎の意見には透子も同意した。隣町の大きな書店に車で連れて行ってもらい、英語と数学、日本史の参考書と問題集を買った。勢太郎の持論で、その三教科はやっておくと困らない、ということだったからだ。
「数学も教えてくれる?」
「高校の数学か・・・・・・多少なら」
「数学苦手なの」
「史絵と同じだな。計算が苦手だった」
「あの人はあたしよりひどいよ。手を使って計算するくらいだもん」
「そうだったか」
勢太郎は目を細めて笑った。日に日に史絵に似てくる透子を、勢太郎はまぶしく思っていた。ふたりの決定的に違う特徴は「女」であることと、「女」でないこと。
透子が雨に濡れて帰ってきたあの日、彼女は初めて自ら勢太郎に触れてきた。それは父親に対して初めて見せた甘え。史絵とは初めて会った時から互いに恋愛感情を持っていた。明らかに違う母娘だが、どこか似ているようにも勢太郎は感じていた。
学校に行かなくなっても透子は透子だった。朝は決まった時間に起き、簡単な朝食を二人分つくり、食べ終わると自分の部屋に入って数時間勉強した。お手伝いの行子の作る昼食を食べた後はリビングで読書、夕方からまた少し勉強をして夕食を食べた。驚くほど規則正しい透子の生活に勢太郎はひどく感心した。そんな生活が数週間続いたある日の夕食時、透子が不意にこう漏らした。
「あたしにも芸術を教えて欲しい」
「・・・・・・芸術?」
「そう」
勢太郎は透子が美術大学に進みたかったことを思い出した。史絵が亡くなってから、その話題は出ていない。
「石膏像を作りたいのか」
「そういうわけじゃないけど・・・・・なにか作りたい。自分の手で」
真剣な面もちの透子を見て、勢太郎は「弟子」という言葉が脳裏に浮かんだ。今まで何人もの人間が弟子にしてほしいと押し掛けてきた。が、だれひとりとして勢太郎の教えを最後まで学ぶことが出来なかった。それは勢太郎がものづくりにたいして、なにひとつ妥協をしないからだ。
「・・・・・・作品づくりに関して、俺は容赦しないぞ」
「わかってる。娘だからって甘えるつもりはない」
透子は男に産まれたかったとたびたび漏らすが、本当に男だったなら、なかなか筋の通ったいい男に育っただろうと勢太郎は考えていた。きっとこの娘は、どれほど厳しくしてもついてくる、そんな気がした。
「どんなものを学びたいんだ?」
「・・・・・・これ、」
アトリエの真ん中にある大きな一枚板の机に、透子は以前勢太郎からもらった画集を広げた。
「これが好き」
透子が指を指したのは、例の「ヴェールに包まれたキリスト像」だった。勢太郎はごくりと喉を鳴らした。
「透子、これは大理石の像だ。それも世界的に名高い彫刻のひとつだぞ」
「知ってる。作者とか、いろいろ調べた」
「石を彫りたいのか?」
「・・・・・・・」
「石じゃなくても、こういう雰囲気が好きで作りたい、ってことか」
「雰囲気じゃない。これが好きなの」
「彫れるようになるには時間がかかるぞ」
「わかってる。まず基礎を教えてほしい」
透子は真剣なまなざしで勢太郎を見た。そしてふと窓の外の雑木林を見た。
「木がいい」
「木?木彫りのことか?」
「そう。暖かみのある素材がいい」
「・・・・・・なるほど」
勢太郎は数日後、木片と彫刻刀を透子に与えた。いつものように午前中は勉強、昼食の後は勢太郎に木彫りの基礎を習う日々が始まった。透子はとにかく真面目に取り組んだ。勢太郎に言わせると「筋がいい」らしい。最初は小さな木片をウサギや熊など動物の形に彫るところから始まり、少しずつ複雑な形に。手のひらサイズの仏像が彫れるようになったあたりで、勢太郎はアトリエの一部を透子専用にリフォームした。
勢太郎は美術館や屋外に設置された彫刻などを見に、透子を連れ出した。透子は見るものすべてに興味を持ち、貪欲に情報を吸収した。そして毎日、うっとりと「ヴェールに包まれたキリスト像」の写真を見つめては彫刻刀を握った。