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「透子」
アトリエで一心不乱に木片に向かう透子に、勢太郎は声をかけた。
「今日は外食だぞ」
「え?」
「今日、誕生日だろ?透子の好きな洋食屋を予約してある」
「・・・・・・忘れてた」
「着替えなさい。車を出しておく」
素直に手を取め、透子は自分の部屋に戻った。タンスを開けて、しばらく考える。そして史絵の形見のワンピースを取り出した。作業着を脱いで姿見の前に立つと、数年前よりさらに豊満になった胸元に目が行く。しかし当時ほど自分の体型に嫌悪感は感じない。それは学校に行かなくなったからだ。誰にもぶしつけな視線を向けられず、自分のままでいられる。今ならこのワンピースをもっと自分らしく着られるかもしれない。
透子はベージュのペチコートの上に、緑色の黒の百合が描かれたシャツワンピースを着た。小さなドレッサーの引き出しから木の小箱を出して真珠のイヤリングもつけた。髪を丁寧にとかして、もう一度姿見の前に立つ。
もし透子の髪が生まれつきの癖毛だったら、もっと史絵に似ていただろう。顔も知らない父親の血なのか、透子の髪は黒くまっすぐ。それだけが母親と違った。着替えを済ませた透子が玄関に姿を現すと、待っていた勢太郎は薄く口を開け、固まった。透子が小首を傾げると、我に返った勢太郎は笑顔を作った。
「行こう。予約の時間に遅れるぞ」
「うん」
透子は持っている靴の中から唯一のよそ行きである、ヒールの低いパンプスを選び、足を滑り込ませた。普段より数センチ身長が高くなり、勢太郎と並んでもバランスが良かった。エスコートされて助手席に乗り込む。勢太郎は今日、ダークグレイのスリーピーススーツを着ていた。田舎町でここまで決め込むと目立ちすぎるんじゃないかとも思うが、これが勢太郎のポリシーだった。
町外れにある洒落た建物は、東京から移住してきた夫婦が立てた洋食レストラン。「お高い」と近所のおばさんたちは噂をしていたが、勢太郎にしてみれば「妥当」なのだとか。勢太郎が予約をしていた旨を伝えると、お待ちしておりました、と女性の店員がうやうやしく奥の個室に招き入れてくれた。席に座ると、輝くグラスに入った水が二人分運ばれてきた。
「透子、今日はシェフのおすすめにした。いいか?」
「はい」
透子は外出時、敬語を使う。この小さな町で、亡くなった愛人の娘が勢太郎にぞんざいな口を聞くのを見られては、なにを言われるかわからない。この店にだって知り合いが来るだろう。
料理が来るまで勢太郎と透子は美術作品の話をしていた。勢太郎が海外で見た名作の彫刻、絵画のこと、若いときに出会った巨匠のこと・・・・・・透子は目を輝かせて聞いていた。このころ勢太郎、そして透子自身も、将来はきっと彫刻家になるであろうと疑わなかった。
「お待たせしました」
料理を運んできたのは女性の店員ではなかった。コック帽を被った中年の男性は、見るからに「シェフ」だった。
「鹿山さま、いつもありがとうございます」
恰幅のいいシェフは最初に勢太郎、続いて透子にも笑顔を向けた。十八歳になったばかりの透子は、こういうとき正しい「愛想笑い」が出来なかった。失礼にならないぎりぎりのラインの表情をつくり、透子は会釈を返した。
「今日は娘さんのお祝いということで、こちらを用意させていただきました」
シェフはテーブルの真ん中に、こじんまりとしたピンクとオレンジのバラのアレンジメントを置いた。透子はそれを見たとき、この色合いをどこかで見たような気がした。
勢太郎も同じことを思ったのか、一瞬たじろいだ。しかしすぐに笑顔になり、「ありがとう」と答えた。シェフは続いて料理をテーブルに並べると、失礼しますと頭を下げ、個室を出ていった。
「・・・・・・・この花、見覚えがある」
透子は言った。言い方は悪いが、どこにでもあるようなアレンジメントだ。これがなんなのか思い出すことは出来なかったが、透子の中で何かがひっかかっていた。勢太郎は微妙な表情を浮かべ、頭を掻いた。
「史絵が好きだった」
「え?」
「この店が出来たとき、連れてきたんだ。最初の客にと店からプレゼントされた花束と同じ色合いだ。史絵が持ち帰ったのを透子は見たんだろう」
「・・・・・・・」
「シェフはが覚えていてくれたんだろうな。・・・・・・史絵は確か、そのワンピースを着ていた気がする」
史絵が死んだことは、もちろん伝えていない。シェフに悪気はないし、透子が史絵のワンピースを着てきたことだって偶然だ。シェフも、勢太郎も、史絵も、なんなら花束だって悪くない。
なのに、透子は何ともいえない「もやもや」に覆われていた。透子の誕生日に、史絵を連れてきた店を予約した勢太郎。田舎町で外食する場所は限られている。その中で勢太郎がここを選ぶのは当たり前だ。よく利用してくれる客のことを記憶していたシェフの細やかさ。鹿山勢太郎という地元の有名人に失礼がないように、何かに書き留めていたのかもしれない。いい料理人に違いない。初めて出来た町の洋食屋に連れてきてもらった史絵が、花束のプレゼントに喜ぶ姿は、簡単に想像できる。史絵は勢太郎を本当に愛していた。当時の透子が、もしや自分は彼らの関係を邪魔する存在ではないかと思うほどに。ピンクとオレンジは、史絵が好きだった取り合わせだ。透子が好きなのは、青と白。自分たち母娘は好む色までが対称的だ。
「気分を害したか」
透子の顔色を見て、勢太郎は言った。勢太郎はなにも悪くない。
「害してなんかない。ただ、なんだかもやもやする」
「・・・・・・すまない」
「なんで謝るの?」
「違う店を選ぶべきだった」
「お料理おいしいよ。ここでよかった」
勢太郎は黙った。透子にもうまく説明がつかないのだ。フォークをハンバーグステーキに突き刺し、大きく開けた口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、飲み込んですぐに次の肉にフォークを突き刺す。勢太郎は黙々と食べ続ける透子を見つめていた。透子は大きなステーキ肉をあっという間に平らげ、スープもサラダもパンも、残さずに食べた。その間、勢太郎との会話はなかった。