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家に戻り、透子はすぐにワンピースを脱いだ。真珠のイヤリングも箱に戻し、スリップ姿でベッドに仰向けに寝転がった。腹をさすると、ぺろりと平らげたハンバーグステーキでまるく膨らんでいた。シェフには悪いが、味はもう覚えていない。あるのは重苦しさだけ。
「透子」
ノックと共に勢太郎の声がした。彼が許可なく部屋に入ってこないことを知っているので、透子は焦らなかった。
「はい」
「話をしたい」
「話?」
「今日のことだ」
透子は体を起こし、ドアの近くまで近づいた。勢太郎は言った。
「俺は、お前を傷つけたか」
「・・・・・・」
「史絵の記憶が今日の出来事に重なってしまったことは謝る。だけど、史絵と透子は別の人間だ」
「知ってる。わたしは透子で、まだ生きてる」
「そうだ。そして透子は俺の大切な娘だ」
透子は黙った。
そうなのだ。私は鹿山勢太郎の娘。史絵のたっての願いで私たちは親子になった。大人の理由というやつだ。
こちらの想いなど、蚊帳の外で。
「そんなに似てるの?」
透子は尋ねた。数秒おいて、勢太郎は答えた。
「・・・・・・・容姿についてなら、似ている」
「他には?」
「ふたりとも芯の強い女性だと思う。だけど、それぞれ違う人間だ」
「・・・・・・・母は、まだ生きてる?」
あなたの中で、という言葉は飲み込んだ。自分が変わっていく。一番嫌いな生き物になっていく。
「・・・・・・・史絵は俺の中にいる。でも、透子の場所とは違うところにいる」
「わたしの場所って?」
「それは・・・・・・」
勢太郎の言葉が途切れた。透子は小さなため息を吐いた。
「もう遅いから、寝る。お休みなさい」
「透子」
返事はしなかった。ドアから離れ、ベッドに腰を降ろしたところで、勢太郎が廊下を戻っていく足音が聞こえた。
透子は座ったまま、大粒の涙をひとつ落とした。
勢太郎を男として意識し始めたのは、いつからだっただろうか。勢太郎と病床の史絵が結婚すると聞いた時の複雑な心境は今でもはっきりと思い出せる。家族としてずっと一緒にいられる反面、透子は勢太郎の娘として世間にも認識される。日に日に自分が史絵に似てくることの苦しさと悲しさ。
母親の夫なのに。ずっと父親がわりだったのに。
(透子は俺の大切な娘だ)
婚姻関係なんかなくても、史絵と勢太郎は真の夫婦だった。ひとり娘を預けるほどに史絵は勢太郎を信用していたし、勢太郎は透子を本当の娘のように愛してくれる。
だけど本当はそれが何よりも苦しい。
娘じゃ足りない。
女として愛されたい。
史絵よりも、誰よりも、自分を愛して欲しい。
勢太郎はきっと気づいている。透子がこの気持ちを抱いていることを。だからこそ「娘」という言葉を使ったのだ。傷つけまいとすればするほど、その心遣いは棘となって透子の胸に突き刺さった。
中学生の時、情事のあとの史絵が夜中に寝室から出てきたのを見て、透子は思わず隠れた。体からにじみ出る、男に愛された直後の独特な気だるさに吐き気がした。学校で、男女関係になっていくクラスメイトにも、言い寄ってくる男子生徒にも、勝手に嫉妬して絡んでくる女子生徒にも吐き気がした。みんなみんな気持ち悪かった。
なのに。
自分は勢太郎に愛されたい、触れられたいと願うなんて。そんな自分が一番気持ち悪い。
透子は立ち上がり、姿見の前に立った。泣きはらした赤い顔と、めりはりのあるボディライン。体つきは若い頃の史絵にそっくりだ。スリップの肩紐をずらして床に落とす。淡いピンクのブラジャーと揃いのショーツ。溢れそうな胸の肉を乱暴に掴む。痛みに顔が歪んだ。
(こんなもの、なんの役にも立たない)
爪が乳房に食い込んで赤い跡がつく。谷間に涙が落ちて冷たい。堪えきれない嗚咽が唇から漏れた。