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透子が彫刻刀を握るようになって三ヶ月が経った。あっという間に上達した透子は、仏像を彫り始めた。勢太郎との関係もあの晩以降変化はなく、父親と娘というそれぞれの立場を全うしていた。
変化が起き始めたのは、ひとりの大学生が訪ねてきてからだった。勢太郎が月に二度教鞭を取っている、札幌の大学の学生だった。名前を吉原と言った。勢太郎は、アドバイスが欲しいと言った吉原をアトリエに招き特別講義をしていた。画家を目指している吉原は、延ばしっぱなしの前髪で半分目が隠れていて、背は高いのにいつも猫背だった。声も小さく、挨拶もよく聞き取れない。初めて勢太郎から彼を紹介された透子は、名字すら聞き取れなかった。
そんな冴えない吉原が描く絵は、衝撃的だった。透子は彼の描く抽象画にショックを受けた。キャンパスいっぱいに素手で直接絵の具を塗りたくる。両手をあらゆる色の絵の具で汚しながら一心不乱に絵を描く吉原を見て、透子は勢太郎が彼をアトリエに呼んだ意味が解った。
「吉原の描く絵をどう思う」
勢太郎は透子に尋ねた。
「・・・・・・おもしろい」
「そうだな。あいつの絵は日々進化してる。透子に見せてやりたかったんだ」
「どうして?」
「刺激になる」
「刺激・・・・・・」
「彫刻じゃなくても、いろいろ見るといい。感性がどんどん研ぎ澄まされていく」
この日も吉原はアトリエの端で、キャンパスに頭をめりこませるほどの勢いで絵を描いていた。吉原が来るようになって三ヶ月が経ったが、透子はまだ挨拶以外の言葉を交わしたことはなかった。
「吉原」
勢太郎が声をかけると、びくっと肩を震わせて吉原は手を止めた。振り返った顔は、相変わらず髪の毛で半分表情が見えない。
「はい」
いつもより通る声で吉原は答えた。
「今日は夕飯を食っていくといい。行子さんがビーフシチューを作ってくれたから」
「でも、先生、」
「ホテルに帰ったってどうせコンビニ弁当だろう。たまに温かい飯を食わないと体を壊すぞ」
「いいん・・・ですか・・・・・・?」
「別に構わん」
吉原は自分の両手を見て、こくりとうなづいた。
「透子、風呂に案内してやってくれるか」
透子は、はいと答えたが、吉原は小さく、えっ、と声を上げた。が、すぐに、すみませんと言って吉原は汚れた手を胸の前で合わせた。そして持参している汚れたエプロンで手をくるむと、透子に頭を下げた。
「どうぞ」
風呂のドアを開け、透子は吉原に言った。
「そこの石鹸使ってください。ここにタオル置いておきます」
説明すると、吉原はありがとうございます、と低い声で答えた。どう考えても透子の方が年下なのだが、吉原はいつも敬語で丁寧だった。透子が出て行くと、中から水の音が聞こえだした。勢太郎は、手を洗うついでに風呂に入ってこいと言っていた。他人を家に入れたがらない勢太郎にしては珍しい。中学の頃、透子とともに雨に降られてびしょ濡れになった同級生には、玄関先でタオルを貸しただけだった。
「風呂、ありがとうございました」
十五分ほどしてリビングに現れた吉原。濡れた前髪が束になり、隠れていた目が初めてきちんと見えた。その目の色はごくごく薄い茶色だった。透子が驚いた顔をしているのに気づいて、吉原は自然な仕草で前髪を降ろした。
お手伝いの行子が作ったビーフシチューとサラダ、パンが並んだテーブルに、勢太郎と透子、吉原がついた。湯気が立ち上る皿をじっと見つめ、なかなか手を付けない吉原に勢太郎が声をかけた。
「食わないのか」
「いえ、あの、こんなの久しぶりなんで」
「ビーフシチューがか?」
「いえ・・・・・・あったかい食べ物を、誰かと食べるのが」
吉原はそう言うと、スプーンでシチューをすくった。透子は横目で吉原を盗み見ながら、パンをちぎった。透子は食事を進めながら、幾度か吉原の隠れた目を見ていた。皿のシチューが半分になったころ、吉原が透子を見た。
「僕の目が気になりますか」
吉原の言葉を受けて、勢太郎が透子を見た。透子は不躾に見ていたことを怒られると思い、うつむいて「すみません」と謝った。しかし勢太郎は怒らず、こう答えた。
「吉原、話してもいいか?」
「はい」
透子は驚いて、勢太郎と吉原を交互に見た。吉原がうなづくと、勢太郎は説明を始めた。
彼、吉原生(よしはら・しょう)は日本人の母と、日本に来ていた海外技能実習生の間に産まれた。母は十七歳で生を産み、父親は妻と子を残し祖国へ戻ってしまったという。生が三歳になったころ、母親は蒸発し施設に引き取られた。中学まで施設にいた生は、高校から絵を描き始めたという。
「吉原は奨学金で大学に通ってる」
「奨学金・・・・・・」
吉原はここに来てから初めての笑顔を見せた。そして透子に向かって言った。
「奨学金はもらってますが、絵を描くことがただ好きなので」
透子は前髪の隙間から、色素の薄い吉原の目を見つめて言った。
「・・・・・・お母さんのことは、覚えていますか」
勢太郎が顔だけを透子に向けた。が、構わず透子は吉原の返事を待っていた。
「母の顔は覚えています。・・・・・・声とかは、あまり」
「寂しくないんですか?」
「今はもう平気です」
「お母さんを・・・・・・恨んだことは?」
透子、と勢太郎が諫めたが吉原は笑顔のままだった。
「恨むっていうのは?」
「・・・・・・」
言葉を間違った、と透子は思った。史絵と吉原の母親では状況が違う。そもそも自分は史絵を恨んでいたのかとはっとした。
「すまない、この子は数年前に母親を病気で亡くしていてな」
「僕は大丈夫です。・・・・・・辛かったですね」
後半の言葉は透子に向けられていた。思わず透子は視線を落とした。そんな言葉をかけてもらえるとは思わず、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。吉原は言った。
「鹿山先生に聞いたんですが、透子さんは彫刻を彫るんですよね」
「は・・・・・・・はい」
「どんなものを彫っているんですか」
「最近は、仏像とか・・・・・・・」
勢太郎が話題を引き取った。
「ほら、あれだ。あそこにあるのは透子の作品だぞ」
勢太郎が指さした棚の上に、三十センチほどの小さな仏像があった。片足を反対の膝の上に乗せて、物憂げな表情で思案する仏像。
「弥勒菩薩ですね」
「知ってるの?」
うっかり口調が緩くなったが、吉原は気にしていなかった。
「好きな菩薩なんですよ。人々を救済する方法を考えて思索にふけるっていうのがよくて」
「このポーズは、救済する方法を考えてるの?」
「そうです」
本を見ながら自分で彫った仏像だが、透子は弥勒菩薩のいわれをよく知らなかった。素朴な疑問が浮かび、質問する。
「結局菩薩さまは助けてくれるの、くれないの?」
透子の台詞に、勢太郎と吉原が同時に目を丸くした。
「助けてくれないのなら、考えても無駄なのに」
あはは、と吉原が笑い声を上げた。勢太郎は驚いた顔で透子を見ている。
「透子さんは素直ですね」
「・・・・・・」
急に気恥ずかしくなった透子は、シチューの中の分厚い牛肉にフォークを刺した。最近、困ると目の前の食べ物をすごい勢いで食べる癖がついていた。