メニュー
吉原と透子の距離は、徐々に近づいて行った。だが、男女の関係になりそうな気配はなかった。それはいつでも勢太郎が監視していたからでもある。
「透子さん」
吉原は敬語をやめなかった。透子はすでに普通に話すようになっていたが、尊敬をこめて「吉原さん」と呼ぶようにしていた。
「今日は光背ですか」
光背というのは、菩薩や如来の背後の、いわゆる後光のようなもの。円だったり、炎のような形をしていて、細やか美しい模様をしている。その部分を丁寧に彫っている透子の横顔を吉原はのぞき込んだ。
「ここ、大事なところだから」
「あ、すみません」
「絵は?休憩?」
「そうです。行子さんが栗ようかんを持ってきてくれました」
そう言った吉原は、トレーに載った栗ようかんと、二人分のコーヒーカップを持っていた。
「一緒に食べましょう」
「・・・・・・」
透子は手を止めた。そろそろ小腹が空いてきたタイミングでもあった。勢太郎は仕事で留守にしていて、今日家には家政婦の行子と透子、吉原の三人だけ。
「吉原さん」
栗ようかんをうまそうに食べる吉原に、透子は尋ねた。
「なんですか?」
「父は吉原さんに厳しい?」
「うーん・・・・・・僕はそう思いませんが、周りの学生たちにはなかなか辛辣ですね」
「それは吉原さんが才能があるからでしょ」
「そんなことありませんよ。僕よりうまい絵を描く人間は、学部にもたくさんいますからね」
「でも父は吉原さんを気に入ってる」
「それは本当にありがたいかぎりです。僕なんかより、透子さんこそ才能の持ち主じゃないですか」
「私はそんなんじゃない」
「数年でこんなに彫れるようになるなんてすごいことです。もっと自信をもっていい」
「・・・・・・・」
吉原は勢太郎と透子に血のつながりがないことを知っているのか、「遺伝」だとかそういう言葉は使わなかった。
「吉原さんは芸術家になるの?」
芸術家、と言う言葉にふっと笑って吉原は答えた。
「なれるのならなりたいです。そのために今、鹿山先生にいろいろ教わっているんです」
「・・・・・・・父はやっぱりすごい芸術家なの?」
「それはもう!鹿山先生はすごい人ですよ」
珍しく吉原は大きな声を出した。生い立ちを明かしてから、前髪で目を隠すこともなくなった。
「大学に教えにきてくださると思わなかったので、知ったときは本当に驚いて・・・・・・・さらに、まさかご自宅でご教授いただけるなんて、僕は幸せ者です」
透子は黙った。娘という立場では、勢太郎の「芸術家」の側面をすべて知ることは出来ない。それについては吉原の方が詳しいように思えた。
「芸術家の父のこと、あまり知らないの。教えて・・・・・・教えてもらえませんか」
透子は頭を下げた。いまだに透子の心の中には勢太郎への想いが残っている。わかりやすい行動には移さないが、簡単に消してしまえる想いではなかった。僕が知っていることならいくらでも、と吉原は答えた。それから透子は吉原が来る度に、勢太郎の作品のこと、大学の授業のことなどを少しずつ聞いていった。
「最近、吉原と仲がいいな」
ある日、勢太郎はこう言った。父親らしい言葉に、透子は思わず吹き出した。
「そんなこと言うんだ。初めて聞いた」
「・・・・・・父親だぞ。当たり前だ」
「吉原さんとは絵や彫刻の話をしてる。大学の話とか」
「今からでも大学に行きたいか?」
「そういうわけじゃないよ」
「だったら・・・・・・」
「吉原さんと話すのは父親の権限で禁止?」
「透子!」
「・・・・・・冗談だから」
「別に禁止するすもりはない。お前も吉原も大人だ」
「まだ未成年だけど」
「俺が言ってるのは精神的なことだ。お前たちは道を踏み外すようなことはしないだろう?」
「・・・・・・絶大な信用をおかれてるみたい」
「俺の娘と、俺が一目置いている男だからな」
「・・・・・・・」
透子は飲みかけのミルクティーの表面を見つめ考えた。吉原は優しく穏やかで、話していて楽しい。かつての同級生たちのようによこしまな視線を送ってくることもなく、いつも一定の距離を保つ。透子の知らないことを、おごることなく丁寧に教えてくれる。兄がいたら、きっとこんな感じなのだろうと思った。同じ男でも勢太郎に向ける感情とは全く種類が違う。
「もしも私が吉原さんを好きだと言ったら?」
口をついて出た。深く考えていなかった。勢太郎は軽く眉を寄せ、そして答えた。
「それは透子の自由だ」
言葉とは裏腹に、勢太郎の表情はじわじわと険しくなってゆく。その顔を作る感情は透子にというより、吉原に向けているものだと見て取れた。
「吉原も・・・・・・お前にそう言ったのか」
「ううん、なにも」
「・・・・・・」
「なんて答えるのか聞いてみたかっただけ。別に・・・・・・吉原さんにそこまでの感情は持ってない」
少しだけほっとした表情で、勢太郎はそうか、と言った。このとき透子は本当に、吉原にさほど興味はなかったのだ。そして吉原も、透子に対して恋愛感情は持っていなかった。驚くべき真実を透子が知るのは、それからしばらく経ってからのことだった。