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吉原は翌年の公募展に向けて、新しく作品をひとつ仕上げたいと言った。
「これを出すんじゃなかったのか」
勢太郎はイーゼルに載せられたキャンパスを一瞥した。それは透子が惹かれた抽象画だった。吉原は前髪の向こう側で気恥ずかしそうに答えた。
「その予定だったんですが、これと同時に描いていた方が・・・・・・気に入っていて」
勢太郎は小首を傾げた。少し離れたテーブルで紅茶を飲んでいた透子は、耳だけをすましていた。
「同時?どんな絵だ」
「・・・・・・持ってきました。見ていただけますか」
そう言うと吉原は、部屋の隅に置いた大きなバッグを開けた。出てきたのは、抽象画のひとまわり小さなキャンバスだった。表側に返すと、そこには青一色で描かれた横顔の人物画が描かれていた。現代風の、ポップな雰囲気を持った絵だった。
「・・・・・・人物画?」
「はい。専門ではないのですが」
透子は立ち上がり、二人が難しい顔をして見つめているキャンバスをのぞき込んだ。
端正な横顔は、男性とも女性とも見えて、中性的で美しい。睫が長く伏し目がちな瞳と、通った鼻筋。透子には、線の細い、日本人離れした美青年の横顔に見えた。
「お前がこんな絵を描くとはな。人物画は苦手だと言ってなかったか」
「苦手です。これは克服のために描いていました」
「それを出すのか」
「・・・・・・なんだか、こちらの方がいい気がするんです」
「お前の抽象画は入選する可能性を秘めてるんだぞ。それでも人物画でいくのか?」
「・・・・・・」
吉原は答えず、人物画と抽象画を見比べていた。透子は人物画の横顔をじっと見つめ、吉原に尋ねた。
「この絵のモデルは誰なの?」
勢太郎と吉原は同時に振り返った。そこに透子がいることに気がついていなかったようだった。
「え・・・・・・?」
吉原は目を丸くした。透子の顔を見たまま動かない。
「透子?」
勢太郎も不思議そうに言った。
「見たことがある気がする。この人・・・・・・」
「気のせいでしょう。僕の知り合いで・・・・・・透子さんの知らない人です」
吉原は笑顔になり、透子の言葉を遮った。
「そう・・・・・・なの?」
透子はもう一度しっかりとその横顔を見ようとしたが、吉原は「すみません」と言ってキャンバスをバッグにしまい込んでしまった。
「先生、作品については少し考えます。また相談に乗っていただけますか」
「ああ。よく考えたほうがいい。せっかくなら可能性の強い方を選ぶべきだ」
「はい」
ふたりの会話はそこで終わり、吉原は抽象画の続きを、勢太郎は書斎へ戻っていった。透子は一度テーブルの前に戻って紅茶の残りを飲んだ。が、どうしても聞きたくなって、作業を続ける吉原に近づいた。透子の足音に吉原はキャンバスから顔を上げた。
「どうしましたか」
「さっきの質問」
「え?」
「嘘でしょう」
「嘘なんかついていませんよ」
「・・・・・・どうして?」
「何がです?」
「・・・・・・わかるから。私には」
「透子さん・・・・・・」
吉原は椅子から立ち上がった。そして目で促すと、透子をアトリエのベランダに呼んだ。この日は風が強く、吉原の前髪は簡単に風で持ち上がった。いつになく真剣な面もちな吉原は、透子に尋ねた。
「わかったって、何のことです」
「あの絵のモデルのこと」
「・・・・・・」
「気がつくのは、きっと私しかいない」
「言ったでしょう、透子さんの知っている人じゃありません」
「・・・・・・・ある意味、知らないかもしれない。全部じゃないけど、知ってる」
「・・・・・・・知っていたとして」
吉原は、色素の薄い瞳を透子に向けた。淡い茶色に吸い込まれそうになる。
「どうするんですか?」
「どうもしない」
「じゃあ、なぜ聞くんですか」
「・・・・・・自分と同じ想いの人を見つけたから」
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
「だからわかったの」
「透子さん・・・・・・」
「誰にも言わないよ」
透子と吉原はしばらく相手を凝視した。先に折れたのは吉原で、ふう、とひとつため息をつくと、両手を腰に当ててこう言った。
「僕と透子さんが、同じ想い?」
「違った?」
「・・・・・・・」
「あれは何か写真を見て描いたの?」
「・・・・・・ええ。ずっと古いものですが」
また沈黙が流れた。
「吉原さんって・・・・・・作ってるよね」
「作る?」
「真面目ぶってるけど、本当は違うんじゃない?」
「今度はなんです?絵の話じゃなかったんですか?」
「話はつながってる。吉原さんの正体を教えて」
「正体って・・・・・・」
「人畜無害な優男の振りをしているだけでしょ」
吉原は前髪をかきあげた。色素の薄い瞳にいつもより力がある。透子は彼の本性をかいま見た気がした。
「・・・・・・参ったな」
「当たった?」
「・・・・・・ドアを締めて」
吉原は透子の後ろのガラス戸を指さした。ベランダと室内を区切るたった一枚のガラスで、何かが変わる気がした。からから、と音を立てて戸が閉まると、見たことのない表情で吉原は言った。
「・・・・・・・俺とあなたは同罪か」
俺、と言った吉原は普段よりずっと男らしく、不意な言葉遣いに透子の細胞が反応する。
「同罪なのかも。あたしは親子、あなたは・・・・・・」
「・・・・・・同性」
ベランダでは、風の音だけが聞こえた。今日に限って表通りの車の音すら聞こえない。
「ねえ」
透子は言った。
「あたしたち、同盟を組まない?」
「同盟?」
「そう。あたしたちにしか出来ないことがある」
透子は自分の声の不穏さに背筋が凍り付いた。