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「・・・・・・何だって?」
勢太郎は眼鏡をゆっくりとはずした。そして眉の間に深い傷を刻んで、透子をじっと見つめた。
「つき合ってる」
透子は今さっき言った言葉を、淡々と繰り返した。
「話が違うぞ」
「状況が変わったの」
「どう変わった」
「気持ちを明確に説明することは難しい」
「・・・・・・・吉原に言い寄られたか」
「言い寄るって言い方は嫌い。それじゃどちらか片方の問題じゃない。あたしたちふたりの問題だから」
「・・・・・・・」
「恋愛は自由でしょ」
「そうだな」
「今度、生がちゃんと話すって言ってた」
生、と吉原を呼び捨てにすると、勢太郎の片方の眉がぴくりと動いた。
「あたしが生とつき合っているからって、彼の指導をやめたりしないで」
「そんなことはしない」
「よかった」
会話が途切れたので、リビングを出ようと歩き出した透子に、勢太郎の鋭い声が飛んだ。
「透子」
「何?」
勢太郎は透子を凝視して固まっていた。数秒経っても何も言わない勢太郎に、透子はこう言葉を返した。
「そんな心配そうな顔しないで。あたしたち真剣につき合ってる。遊びなんかじゃないから」
お父さん、と最後に付け足して、透子はリビングを出た。
結局、吉原は人物画ではなく抽象画を公募展に出し、勢太郎が言ったとおり、見事に入選を果たした。俄然やる気を出した吉原は、毎週のように勢太郎のアトリエにやってきた。来た日は必ず泊まっていったが、勢太郎はアトリエにソファベッドを置き、そこに寝るように言った。アトリエから透子の部屋へ行くには、勢太郎の書斎の前を通らなければならない。吉原が、もしくは透子がお互いの寝所に行こうとすれば、足音で気づかれる。
勢太郎は変わらず吉原に熱の入った指導をした。吉原はそれをまっすぐに受け止め、創作活動にも熱が入った。透子がコーヒーやお茶菓子を持って休憩を促すときだけ、勢太郎は顔色を変えた。とたんに口をつぐみ、もくもくと菓子を食べ、ひとりベランダに出てたばこをふかす。
透子はそんな勢太郎を後目に、吉原と仲むつまじく話す。吉原は最初こそ勢太郎に気を遣っていたが、最近は慣れたのか、勢太郎が席を外しても気にせず透子と会話を楽しんだ。
「今日、父の誕生日なの」
透子はベランダで煙草を吸う勢太郎の後ろ姿を見ながら吉原に言った。吉原はとても小さな声で、え、と言った。
「行子さんがごちそうを作ってくれる」
「・・・・・・」
「お願いしたブランデーで、早々に寝てしまうと思う」
「買ってきてくれ、っていうのはそういうことだったのか」
「ええ」
「透子、本当にやるつもりか」
「怖じ気付いたの?」
「というより、良くない、人道的に」
「人道的?」
「騙すんだろう」
「でも気づかれない」
「気づくさ」
「そのための準備はしてある」
「でも、それじゃ・・・・・・・」
吉原はそっと視界の端で勢太郎の横顔を盗み見た。
「あれだけ話し合ったのに。お互いのためでしょ」
「・・・・・・・」
「たった一度だけ。それですべては終わるの」
「でも」
「もう決めたの。・・・・・・協力してほしい」
透子の真剣な眼差しに、吉原は苦しそうに、ゆっくりとうなづいた。勢太郎がベランダから戻ると、透子は何もなかったかのように、空になったカップ類をトレーに載せてキッチンに向かった。
「・・・・・・痛っ・・・・・・」
廊下の途中で、透子は胸の下あたりに鋭い痛みを感じて立ち止まった。ここのところ、数日おきにこんな痛みがある。壁に背中を預けて、透子は痛みが通り過ぎてくれるのを待った。肩で息をしながら何とかやり過ごすと、透子は片手で額の汗を拭って歩き出した。
「あらあら、言ってくれれば取りに行きましたのに」
廊下のつきあたりのキッチンのドアから、お手伝いの行子が顔を出した。透子は体調の変化を気づかれないように、笑顔を作って答えた。
「これくらい、自分で持って行きますよ。それより行子さん、今日の夕食、すごく楽しみ」
「わたしの作るもので本当に良かったんですか?外食のほうが美味しいもの食べれるじゃありませんか」
「ううん、行子さんのご飯、私大好き。生も楽しみにしてます」
ありがとうございます、と答えながら行子は透子からトレーを受け取った。行子はこの家で働き出して八年になるらしい。透子が住み始めるより前から勢太郎の世話をしてきた。彼女の作る食事は、本当に美味だった。
透子は自分の部屋に戻ると、ベッドの上に体を丸めて横になった。まだ少しだけ、胸の下が痛い。
(まだ・・・・・・まだ大丈夫。もう少し待って)
透子は胎児のように体を丸めて、ぎゅっと目を閉じた。