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小一時間後、透子は勢太郎の部屋を出た。廊下は静まりかえり、空気はぴんと張りつめている。乱れた髪を手櫛で整えながら、自分の部屋の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。吉原が眠っているはずだと静かに扉を押し開けて、透子は足を止めた。ベッドの端にうつむいて座っている吉原がいた。
「・・・・・・起きてたの?」
「眠れないよ」
「もう大丈夫よ。少し寝たら?」
「透子」
吉原はベッドに腰を下ろしたまま、うつろな目で透子を見上げてきた。
「なに?」
「・・・・・・本当に・・・・・」
吉原は途中で言葉を飲み込んだ。透子は彼の隣に腰を下ろしてこう答えた。
「勢太郎はちゃんと眠ってる」
「・・・・・・」
「心配はいらない」
「後悔はないのか」
「ないわ」
「先生が目覚めなかったのは本当に奇跡だよ」
「そうかもしれないけど。あたしたちが黙っていれば誰も知ることはない」
「・・・・・・先生に合わせる顔がないよ」
「あなたはいいひとね」
「違う。俺は卑怯者だ」
「卑怯?」
「透子を止められなかった」
「あなたが止めたって私はやったわ。あなたが責任を感じる必要はない」
「それでも・・・・・・」
うつむいた吉原はそれ以上何も言わなかった。透子は手を伸ばし、吉原の顔を自分の方に向けさせた。
「生」
名前を呼んで、透子は吉原に口づけした。
「透子・・・・・・?」
「あなたは女を抱けないのよね」
「それは・・・・・・・」
「あたしは確かに女だけれど、これは勢太郎が触れて抱いた体よ」
「・・・・・・・何を言ってる?」
吉原は青ざめた顔で首を横に振った。恐ろしい提案に気づき、だめだ、だめだと繰り返す。透子は吉原の手を握り、声を潜めた。
「あの人の温度がこの中にまだ残ってる」
そう言って透子は自分の下腹部に吉原の手を導いた。
「透子!」
慌てた様子で吉原は手を引っ込めた。
「灯りを消して、勢太郎の顔を思い出せばいいわ。あたしは黙っているから」
「そ・・・・・・そんなこと出来ない!」
透子は瞬きを繰り返し、吉原の瞳をじっと見つめた。
「もちろん生が「代わり」なんかじゃなく、本人のところにもう一度行くなら止めないわ。勢太郎は明日の朝までぐっすりだから」
「行かない! 行けるはずがない!」
「じゃあ一生、その想いを胸に抱いて生きて行くの?」
ごくりと吉原の喉がなった。
「あたしたちは同志。この辛さが分かるのはあたしたち以外に誰もいないわ」
「お・・・・・・俺はっ・・・・・」
吉原は透子から顔を背けると、頭をがりがりと掻いて立ち上がった。窓辺に走り寄り、肩を震わせる吉原の色素の薄い瞳に涙が浮かんでいた。透子は追いかけて後ろから彼を抱きしめた。傷つけてしまったことに気付いたが、すでに遅かった。
「追いつめるつもりはなかったの・・・・・・ごめんなさい」
吉原の涙はぼたぼたと床に落ちた。透子は男性が人目をはばからず、激しく涙を流す姿を初めて見た。史絵が亡くなったときですら、勢太郎は声を上げて泣くことはなかった。吉原の背中をさすりながら、透子は謝った。
「生はあたしとは・・・・・・違うわよね。巻き込んだりしてごめんなさ・・・・・・」
言い掛けた透子の体は、急に強い力で窓に押しつけられた。服を通してガラスの冷たさが伝わってくるが、それよりも乱暴に唇を押しつけられ息が詰まる。
吉原はまだ泣いていた。塩辛い涙が透子の顔をも濡らす。せんせい、せんせい、とうわごとのようにつぶやきながら透子の体を強い力で抱きしめる。同じ男を愛する者同志、行き場のない想いがそれぞれの体の中をぐるぐると駆けめぐっていた。
「生・・・・・・」
透子は両腕を吉原の背中に回し、強く抱きしめた。それを合図かのように、ふたりはベッドにもつれるように倒れ込んだ。