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早朝。
まだ眠る吉原に気付かれないようベッドを抜け出した透子はトイレに駆け込んだ。便器にしがみつき血を吐く。ひどくせき込んで、落ち着くまでに五分ほどかかった。洗面所に寄って冷水で口をゆすぎ、顔を洗う。と、勢太郎の部屋の重いドアが開く音がしてぎくりとした。室内履きがぱたん、ぱたんと音を立てている。トイレに向かっているのだとわかって透子は息を潜めた。今、顔を合わせたくなかった。
勢太郎の横顔はいつも通りに見える。透子が部屋に忍んで行ったことは夢かなにかだと思ってくれたらいい。口を押さえて、透子はトイレの扉が閉まるのを待った。
ところが。
「透子か」
勢太郎の声が響いて、背筋が凍った。水音で気付かれてしまったのだろう。透子はいつものポーカーフェイスを作り、廊下に顔を出した。いつもどおりの声で、こう答える。
「おはよう」
「おはよう。ずいぶん早いな」
「目が覚めちゃって」
「そうか。・・・・・・今、せき込んでなかったか?」
吐いていたのを聞かれていた。それでも透子は小首を傾げ、こともなげに答えた。
「部屋が乾燥してたみたい。少し喉がいがいがするの」
「乾燥?」
「うん。昨夜、寒かったし」
「行子さんにはちみつ生姜湯を作ってもらうといい。あれを飲めばすぐに治る」
「そうする」
何気ない会話を終えて、それぞれがもう一度寝室に向かって歩き出す。何も気付かれていない。透子は胸をなで下ろしながら自分の部屋のドアノブに手をかける。
「透子」
はっとした。
寝室に戻ったはずの勢太郎が、廊下の先でこっちを見ていた。
「・・・・・・なに?」
「昨晩・・・・・・俺の部屋に来たか?」
背骨の脇を、冷たい汗が伝わり落ちた。まさか。
「・・・・・・昨晩?どうして?」
「ランプが消えてた。点けたまま寝たと思ったんだが」
「かなり酔ってたから、間違えて自分で消したんじゃない?覚えてないの?」
「確かに酔ってたが、滅多に消さない」
「だいたい、もう子供じゃないんだから寝室になんて行かないし」
「まあ・・・・・・そうだな。吉原はまだ寝てるのか」
「まだ寝てるんじゃない?」
勢太郎はいうものように、吉原がアトリエで眠っていると思っている。
「そうか。じゃあ、俺ももう少し寝ることにする」
「うん」
うまく話せただろうか。指先が少しだけ震えている。やっとの思いで部屋に入り、息を吐き出すと足の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「透子!」
ベッドで半身を起こした吉原が驚いて声を上げた。慌てて駆け寄り、透子の上半身を支える。
「どうしたんだ」
「大きな声を出さないで」
「顔が真っ青だ」
「勢太郎が・・・・・・」
はっとして吉原はドアの方を見た。
「もういない。自分の部屋に戻ったわ」
「気づかれ・・・・・・・たのか?」
「・・・・・・わからない」
「そんな・・・・・・」
と、一度収まったはずの発作がぶり返し、透子は激しくせき込みだした。口を押さえた手のひらの隙間から、鮮血がこぼれ落ちる。
「透子!」
苦しさに胸を押さえる。寝間着の胸元が赤く染まってゆく。勢太郎に知らせようとする吉原にしがみつき、透子は必死に首を横に降り続けた。
「やっぱり体調が悪いんじゃないか」
「お願い、父には言わないで」
「どうして! 隠したっていずれ気づかれることだ」
「それでも、今はだめなの」
「透子!」
「後生・・・・・・だから・・・・・・」
胸の苦しさで涙があふれる。吉原は透子の背中をさすり続け、いつしか透子はその腕の中でうとうとと眠り始めた。
透子は自分が史絵と同じ病を患っていることに気づいていた。
数日後のことだった。
「どうしたの」
備え付けの黒電話の受話器を持って難しい顔をしている勢太郎に、透子は声をかけた。
「繋がらない」
「どこに?」
「吉原だ。明日の予定を確認する予定だったんだが」
透子はぎくりとした。しかし出来るだけ平静を装い答えた。
「生が?」
「透子、何か聞いていないか」
「何も聞いてない。明日来ると思っていたから」
「そうか。・・・・・・出かけているのかもしれないな」
ひとりごとのようにつぶやき、勢太郎は受話器を置いた。吉原はまだ、携帯電話を持っていなかった。勢太郎とのやりとりはすべてこの古めかしい黒電話のみ。会話を終えた勢太郎は、じっと透子を見つめた。
「透子、ちょっとこっちを見なさい」
「・・・・・・なに?」
勢太郎の手が伸びてきて、透子の頬に触れた。透子は拒まずにじっと勢太郎の顔を見上げた。
「痩せただろう。ちゃんと食べていないんじゃないか」
「食べてる」
「行子さんが心配していた。最近、肉も魚もあまり食べないと」
いずれ知られることとは思っていたが、行子のことを忘れていた。透子は笑顔を作って言った。
「実は最近、少し太ったかなと思って。ダイエットしてたの」
「太ってなんかいないぞ」
「だから、ダイエットして戻したの」
「・・・・・・行子さんにちゃんと説明しておきなさい。せっかく作った料理を棄てさせるなんてだめだ」
「ごめんなさい。ちゃんと食べます」
勢太郎はゆっくりとうなずいた。廊下を戻っていく後ろ姿を見て、透子は胸をなで下ろした。もう限界だ。隠しきることは出来ない。