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診察室から出てきた透子を、吉原は立ち上がって迎えた。
「ど・・・・・・どうだった、大丈夫か」
「うん。思った通りだった」
「・・・・・・治療は?」
「痛み止めをもらった」
「根本的な治療は・・・・・・」
「今日はまだ、決めていない」
「治療するんだな?」
「・・・・・・相談する」
ほっとした表情の吉原を見て、透子は胸を痛めた。この男を巻き込んでしまったことを、透子はここのところずっと申し訳なく思っていた。吉原に説得され札幌の病院に来たが、渋っていた透子も診察のあとは「来てよかった」と思っていた。こんなに病状が悪化していたなんて思わなかったのだ。
「それより、生」
話を切り替えると、吉原の顔がわかりやすく曇る。
「父とは話したの?」
「・・・・・・これからだよ」
「今日、来るでしょ」
「約束はしてない」
「してなくても平気よ」
「平気じゃない。先生はアポなしで訪ねられるのが嫌いだから」
「言ってあげるのに」
「透子を使ったら余計に怒られる。知ってるだろ」
それはそうだけど、と透子は心の中で呟いた。勢太郎は、透子と吉原が交際をしていても、芸術に関してはそれぞれ個人として扱う。
「それより、今夜ちゃんと病状について先生に話すんだ」
「今夜?」
「そう。俺は行かないから、ちゃんと親子水入らずで」
「二人きりだと暗くなるから嫌」
「他人がいるべきじゃない」
「生は他人じゃないわ」
「そうだけど、きっと先生は俺がいない方がいいはずだ」
あの晩の透子と吉原の企みについて、その後勢太郎は何も言ってこなかった。「痩せた」と言われたことも、食欲が落ちていることを隠すため、行子の作る食事を透子は必死で食べた。
「私の話もそうだけど、生も早く父に話さなきゃ」
「・・・・・・わかってる。来週行くからそこで伝える」
「来週までうちには来ないの?」
「そのつもりだけど」
「・・・・・・」
「どうした?」
「ちょっと・・・・・・今日はまっすぐ帰りたくないの」
病院の帰り、どうしても気分は上がらなかった。少し考えて、吉原はこう提案した。
「・・・・・・俺のアパートに来る?お茶くらいなら出るよ」
「いいの?」
「いいよ。びっくりするくらい狭いけど」
札幌に住む吉原。透子が彼の家に行くのは初めてのことだった。地下鉄を乗り継ぎ、駅を降りてバスで十五分。二階建ての、濃いグレーの壁の古いアパートの二階の一番奥の一室が吉原の家だった。
「汚いけど適当に座って」
アパートの部屋は本当に小さく、でも透子はどこか懐かしく感じた。母の史絵と住んでいた家は小さな一軒家であったが、どことなく吉原の部屋と雰囲気が似ていた。
昔ながらのやかんでお湯を沸かし、ほうじ茶を淹れて吉原はちゃぶ台の上に湯飲みを置いた。
「狭くて古くて。先生の家に慣れてると驚くだろ?」
「ううん。昔母と住んでいた家と雰囲気が似てて。なんだか懐かしい」
「そうなんだ」
「こういう雰囲気、嫌いじゃない」
ちゃぶ台の脇には、使い古した座椅子がふたつ。小さなテレビは直接床の上に置いてあり、その隣には観葉植物が植わっていただろう鉢がひとつ。シンクだけの小さなキッチンと、吉原の背の半分くらいの小振りな冷蔵庫。食器棚はなく、冷蔵庫の上にマットが引かれていて、数個の食器にふきんを被せて置いてある。
襖を開けたままの和室。畳の上に敷いた新聞紙の上に、吉原の描いた絵のキャンバスが何枚か立てかけられていた。筆の入った水バケツ、使い掛けの油絵の具のチューブもごろごろ転がっている。
「画家の部屋ね」
「そんなんじゃないよ、実際何も描けていないんだ」
「スランプは誰にでもある」
「・・・・・・そうかな」
吉原は今、「描けない」という理由で絵から離れようとしていた。透子は慰めるつもりで、しかしあまり感情を載せないようにして言った。
「少し時間を置けば、また描けるようになるかもしれないし」
「だといいんだけどね。先生はきっと許してくださらない」
「そう? 父だって人間だもの、スランプぐらい理解してくれるわ」
吉原は口元だけで軽く笑い、湯飲みを傾けた。透子は立ち上がり、描き掛けのキャンバスに近づいた。
「ねえ、生」
「うん?」
「ヴェールに包まれたキリストって知ってる?」
「ええと・・・・・・絵画?」
「ううん、彫刻」
「・・・・・・・ああ! ジュゼッペ・サンマルティーノだ」
「そう! さすがよく知ってるのね」
「先生の資料で読んだことがあるだけだよ。それがどうしたの?」
「あたし、あれがすごく好きで。だから彫刻を始めたの。彫れるようになるとは思っていないけど」
「目指すものがあるのはいいことだよ」
「生は? どうして絵を描き始めたの?」
吉原は目を大きく見開き、次の瞬間、ばつが悪そうに目を伏せた。
「生?」
「俺のきっかけなんか聞いても仕方ないよ」
「聞きたいの」
「・・・・・」
「だめ?」
「・・・・・・透子に隠しても仕方がないな」
吉原はひとつ大きなため息をついた。