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吉原生は、子供のころから絵を描くことが好きだった。それで生計を立てるとは思っていなかったし、孤児だった生にとっては「生活」とは、堅実な職業のもとに成り立つものだと思っていた。
それが、奨学金をもらってまで美術を専攻しようと思うきっかけとなったのは。
(セミナーに行ってみないか)
中学の美術部顧問に言われたひとこと。北海道在住の美術、芸術家が、将来有望な若者のために開くセミナーがあるのだと聞かされたのだ。各学年から一人ずつ選ばれて、三年は生だった。
両親がおらず、友達も少ない生。顧問は不憫な自分のためにチャンスをくれたのだと思った。行ったところでどうにかなるわけでもない、と思いつつ生はセミナーに参加することにした。
近隣の中学、高校から選ばれた精鋭たちの中、生は出来るだけ目立たないように一番奥の席に座った。セミナーに教鞭を取りに来たのは、画家がふたり、彫刻家がふたり。
年輩の女性の画家、五十代前半の男性画家、彫刻家はふたりとも男性で、六十代男性がひとり、そしてもうひとりが「鹿山勢太郎」だったという。
一目惚れ、という経験が自分に起こるとは、生は信じられなかった。ヘリンボーンのジャケットにグレーのワイシャツ。ノーネクタイで胸元のボタンがひとつ開いている。黒いパンツで包まれた足はすらりと長く、肩につく長さの黒い巻き毛はひとつに結ばれていた。中年男性の出で立ちとしては、際だって洗練されていた。
他の教師たちは各生徒たちに思い思いのアドバイスを伝えたが、勢太郎だけはキャンバスを上からのぞき込み、興味なさげに通り過ぎる。ひとり、またひとりと通り過ぎ、生の席の前に立った時。生は赤い顔を見られないようにうつむいて、他の生徒と同じく何も言われず通り過ぎられるのをじっと待った。
(筆はそれしかないのか)
勢太郎の一言目は、それだった。え? と顔を上げると、端正な勢太郎の顔が生をのぞき込んでいた。
(ちゃんとした筆を使わないと、せっかくのタッチが生かされない)
(こ・・・・・これしか持っていないんです)
勢太郎は、キャンバス横に置かれた水バケツに入った絵筆を一瞥した。どの筆も使い古され、その中では今生が持っているのが、一番「マシ」だった。
(筆を買えなくて)
恥ずかしそうにうつむく生に、勢太郎の視線が降り注ぐ。顔が赤いのが、筆を買う金もなくて恥ずかしいと判断されればちょうどいい。勢太郎は無言で生のキャンバスから離れた。ほっとしたのと、少し寂しいのとがないまぜになりながら、生はキャンバスに向き直った。
そのセミナーが無事に終わり、普段の部活動のある日。
(これを預かったぞ)
顧問が、細長い箱を生の前に差し出した。
(え?)
(彫刻家の鹿山さんからだ)
(ど・・・・・・どういうことですか)
(いいから開けてみなさい)
群青色の細長い箱を開けると、そこには生が使っている筆の何倍もの値段の高級な絵筆が三本並んでいた。
(こ、これ、あの)
(鹿山さんがお前にと。いい筆で、もっとたくさんの絵を描きなさい、との伝言だ)
生は震える手で筆を取り出した。太さの違う筆は、いろいろなタッチに適応している。小学生の時に揃えなければならなかった絵筆とは、毛並みも柄の肌触りもまるで違った。
それから生は、いつか自分の絵がもう一度「鹿山勢太郎」の目に触れるために、日々描き続けた。そして三年ののち高校を卒業し、生は奨学金で大学に入る。時を同じくして、鹿山勢太郎が月に二度、その大学で授業を受け持つことになった。
「そこにあるのが、先生に頂いた筆だよ。もうぼろぼろになってしまったけど」
「今は素手で描くものね」
「それも先生がアドバイスしてくれた。筆で描けるレベルは越えたんじゃないか、って・・・・・・・試しにやってみたら、すごく面白かったんだ」
「やっぱり才能があるのよ」
「・・・・・・才能か。透子は才能って何だと思う?」
「他人には理解できないものを、信じて作り続けられること」
迷わずにさらりと言ってのけた透子に、吉原は目を丸くした。
「さすがは先生の娘だ・・・・・・そんな言葉が出るなんて」
透子は舌をぺろりと出して、いたずらっぽく言った。
「なんてね。父の受け売りよ」
「先生が?」
「一度だけ、同じ質問をしたらそう言ってた」
ははは、と吉原は笑った。ふたりはちゃぶ台に戻り、向かい合って座った。吉原は茶を飲み干してから、真剣な面もちでこう切り出した。
「ずっと聞きたかったことがある」
「なに?」
「あの晩のことだ」
急に空気がひりついた。
「透子・・・・・・本当にあの晩、君は、」
二人の視線が交差する。デリケートな話題に沈黙が続いた。しばらくして、透子が切り出した。
「どうして知りたいの」
「どうしてって・・・・・・」
「何度も言ったけど、生に迷惑をかけることはないわ」
「迷惑とかそういうことじゃない」
「子供が出来たら、とかそういうことを心配してるの?」
「可能性はないわけじゃない」
「そうなれば産む」
「無理だ。それに、」
吉原は黙った。
「先生はきっと、気づく」
「かもしれないけど・・・・・・証拠はない」
「証拠がなくても、先生は勘がいい。問いつめられたらどうするつもりだ?」
「切り抜けられるわ。だって勢太郎はあの晩、眠っていたんだから」
「透子!」
吉原は身を乗り出し、透子の肩を強く掴んだ。透子は肩の痛みに顔を歪めた。
「強がるな! 君が怖れていることがわからないとでも? 形だけとはいえ、俺は君の恋人なんだ。本当はすべてがばれてしまいそうなのが、恐ろしくてたまらないんだろう?」
「生・・・・・・」
「取りかえしのつかないことになる前に、」
「告白する?」
吉原はぐっと言葉を飲み込んだ。
「そ・・・・・れは・・・・・・」
「あの晩のことは、なかったことになるから大丈夫」
「なかったことになる?」
透子はひとつうなずき、場に似合わない笑顔を浮かべて答えた。
「私はもうすぐ死ぬと思う」
「透子!」
「仕方ないの。母も同じ病気だった」
「だから病院に行ったんじゃないか! 治療するって、」
「しても無駄よ。わかるの。自分の体だから」
「頼むからそんなこと言わないでくれ!」
生はずりずりと膝で近づき、正座する透子の腰にしがみついた。そんなこと、初めてのことだった。
「生・・・・・・どうしたの?」
「俺にも・・・・・・よくわからない・・・・・・透子にいなくなってほしくないんだ」
「生は女性を愛せないのに・・・・・・おかしいわ」
「透子は透子だ。女性だから、そうじゃないから、なんて関係ない」
「生は、今も勢太郎が好きでしょう」
「・・・・・・」
「私が彼の娘だから、そう思うんじゃない?」
「そう・・・・・・かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「めちゃくちゃ」
「めちゃくちゃだな」
吉原は体を起こし、透子の顔を両手で引き寄せた。ゆっくりと唇を重ねる。透子は目を閉じた。
「・・・・・・いいか」
「いいけど・・・・・・どうしたの?」
「わからない。でも、今どうしても君に触れたい」
一度、体を重ねたときは、吉原の苦しさを紛らわせるためだった。そして今は、それぞれの心に開いた穴を埋めるように、ふたりは互いの背中に腕を回した。