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透子と吉原が本当の意味で結ばれた夜から数ヶ月経った頃。
勢太郎の手には、白い便箋。難しい顔をしてしばらく読み進めると、勢太郎はゆっくりと視線を上げた。
「生は、なんて・・・・・・?」
透子が尋ねると、眉根を寄せて勢太郎は答えた。
「母親だと思われる方が見つかったらしい」
「え・・・・・・?」
「・・・・・・ご遺体で。事故に巻き込まれたそうで、警察で身元がわかり、吉原が育った施設に連絡が行ったそうだ。夫は他界していていないとか」
孤児だと言っていた吉原。今になって母親が、それも亡くなった状態で現れるなんて、なんと不憫なことか。
「本当に・・・・・・お母さんだったの?」
「それを今、確認しているらしい。しばらく大学も休むと」
「そう・・・・・・」
「落ち着いたら戻ってくるさ。心配するな」
不謹慎極まりないが、透子は今このタイミングで吉原が家にやってこないことはちょうどいい、と思った。最近また体調が良くない。吉原が心配するのを勢太郎に見られ、一度大騒ぎになりかけている。風邪だと言い張って事なきを得たが、次はもう誤魔化しきれないだろうとわかっていた。
「吉原が戻ってきたら、そろそろだな」
透子は勢太郎が何を言っているのか、まったく分からなかった。小首を傾げていると、呆れたような顔をして勢太郎はこう言った。
「何がってなんだ、人ごとみたいに。式はちゃんとしなきゃだめだろう」
「・・・・・・しき?」
式、という言葉が「結婚式」だとわかるまでに、透子の頭の中はぐるぐると回った。結婚? 誰と誰が?
「吉原の回りが落ち着いたら、ちゃんと予定を立てよう。
おまえたちがしたいようにするといい。嫌かもしれないが、資金の面ぐらい手伝わせてくれよ」
「ちょっ・・・・・・と、待って、そんな、結婚なんてそんな、」
「真剣に交際していると言わなかったか」
「それは言った、言ったけど、でもそんな急に、」
「急じゃない。きっと吉原はそのつもりだ」
「生が、そう言ったの?」
「言ってない。でもわかる、男同士だからな」
男同士、という言葉に違う意味を思い浮かべて、透子の気持ちは重くなった。確かに吉原は透子を大事に思ってくれていたが、それは単純な愛情ではないし、吉原が女性を愛せるようになったわけでは絶対にない。だから、勢太郎ある意味、「男同士だからこそ全くわかっていない」のだ。
「結婚なんて、まだ考えられないよ」
「年齢は関係ないぞ。お前たちはそれぞれ自立心があるし、互いを尊重している。いい関係性だ」
「そんなふうに見えるの?」
「違うのか?」
「違わない、けど・・・・・・まだこのままでいいと思ってたから」
「・・・・・・まあ、無理にとは言わないが、吉原はお前にふさわしい、いい人間だと思うぞ」
「・・・・・・ふさわしい?」
言葉を反芻すると、勢太郎は一瞬たじろいだように黙った。しかし笑顔をつくり、そうだ、と言って話を急に終わらせた。
まだ本格的に始まったわけではなくとも、「結婚」の二文字が実際に迫ってきている。透子は自分の部屋に戻り、ベッドに仰向けになった。
吉原は今、生き別れになった母親と再会している。そんな時に結婚話が持ち上がっていることこそ不謹慎なのかもしれない。何より吉原にとっては寝耳に水に違いない。透子を愛してくれているとはいえ、結婚するつもりなどないはずだ。
と。
急な息苦しさと刺すような痛みが透子を襲った。普段、こういった痛みは数分すれば収まっていた。体を丸めて痛みに耐える。唇を噛み、自分の体を強く抱きしめるようにして波が過ぎてゆくのを待った。
が、今日に限って痛みが収まらない。体中の毛穴から脂汗がにじみ出る。おかしい、おかしい、どうして、とつぶやきながらベッドの上でのたうちまわった。喉の奥に熱がこみ上げてきたと思った瞬間、勢いよくむせ込み、ベッドの上に血のかたまりが吐き出された。
血で汚れた小花柄のベッドカバーを見下ろして、透子は気を失った。遠くで、お手伝いの行子が「透子さん、透子さん」と叫ぶ声が聞こえた気がした。
透子が目を覚ましたのは、やはり病院だった。それも、そこは史絵が最後に入院していた病院。どうやら個室らしく、ぐるりと囲まれたカーテンの外側には人の気配がなかった。目を開けても体はまだ動かなかった。左腕には点滴の管。声を出してみようかと思ったが、個室なら出すだけ無駄だ。その時、話し声と共に扉が開く音がして、透子は思わず目を閉じた。入ってきたのは勢太郎と、男性の医師らしかった。
どうして寝たふりをしてしまったのか、透子には、こうなることがなんとなく分かっていたのかもしれない。
「本当なんですか、間違いなんじゃ、」
「間違いありません。お嬢さんはなにもおっしゃっていなかったんですか」
「・・・・・・」
「隠していたにしても、こんなになるまで・・・・・・相当辛かったと思いますよ」
「先生、治療はどのように? どんな治療でも受けさせますから言ってください」
「もちろん最善は尽くします。ですが、母体に負担はかけたくないので出来るだけ・・・・・・」
「・・・・・・え?」
会話が途切れた。目を閉じたまま、透子は自分の心臓のどっ、どっ、という音だけを聞いていた。そんな、まさか、本当に?
「待ってください、母体?」
勢太郎の声が、いつもよりずっと弱々しい。医者は黙った。何もかも知らされていなかった父親に、同情したのかもしれなかった。
「お嬢さんは妊娠されていますよ。三ヶ月になります」
透子は閉じていた目をさらにぎゅっと強く瞑った。その後、勢太郎と医師が何かを話しているのが聞こえていたが、内容は全く入ってこなかった。自由に動く右手をそっと下腹部に添え、透子は仰向けのまま涙を一筋こぼした。