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眠る勢太郎の寝室に忍び込み、服を脱いでベッドに入ったとて、どうにもならないことくらい透子にもわかっていた。透子が経験豊富ならば、どうにかなったかもしれない。しかしぐっすりと眠る勢太郎を起こさずに事に至る方法など、透子には皆目わからなかった。
また、透子は勢太郎を愛している生に、想いを遂げたらいいとすすめた。自分の曲がった感情につき合わせた生へのせめてもの償いだった。生もそれを理解していたが、彼はまっとうな人間であり、眠る勢太郎をレイプすることは出来なかった。
生は端から透子に計画を遂行することは不可能だと思っていた。生は生で、自分の性的指向を責めずに寄り添ってくれる透子に助けられていたのだ。
「無事勢太郎への想いを遂げた」と嘘をつく透子。そしてその透子を抱いた生。つまり透子の「はじめて」の男は正真正銘、吉原生だった。
病室でふたりきりになった透子と勢太郎は、しばらくの間無言で見つめ合った。勢太郎は、病気を隠していたことと、妊娠していることを同時に言い渡され、ひどく混乱していた。
「どうして黙っていた」
やっと絞り出されたひとこと。勢太郎は怒るでもなく悲しむでもなく、どう理解したらいいのか、といった表情をしていた。
「いずれわかることだと思ってたから」
「こんなかたちで知らされなきゃいけないのはおかしい話だ」
「母と同じ病気だったから。ショックをうけるかもしれないと思って」
勢太郎はとてつもなく大きなため息をついた。両腕を胸の前で組んで、ひときわ低い声で言った。
「・・・・・・・お前には、俺がそんなに弱い人間に見えるのか」
「そういうわけじゃないけど・・・・・・」
「どんな病気だろうと宿命だろうと、俺にはお前のすべてを受け止める準備がある」
少しだけ間を置いて、透子は尋ね返した。
「受け止める?」
それは嘘よ、と心の中で透子は続けた。まるで聞こえているかのように勢太郎も続ける。
「・・・・・・お前はいつもそうやって俺を見る」
「だって、嘘だもの」
「嘘なんかじゃない」
「本当の私の気持ちを受け止めたりできないわ」
勢太郎は組んでいた腕を解いた。
「こんなに何もかも隠されているとは思わなかったがな」
「妊娠は、私だって知ったばかり」
ふたりの間にまた沈黙が広がる。透子の目を見ないまま、勢太郎は尋ねた。
「父親は吉原か」
当然の疑問に、透子は瞬きもせず、自分の腹部を押さえて答えた。
「この子に父親はいない」
「何を言ってるんだ。父親がいなければ子供は出来ない」
「いないっていう意味は」
透子は言葉を切った。
「この子の父親になれる男性はいない、ということ」
「どうして、吉原はお前を」
「生は私を大切に想ってくれている。でもそれとこの子の父親になれるかどうかは別問題だわ」
「そんな無責任なことがあるか!」
「私の本当の父親は、私を望んでいなかった!無責任に!」
勢太郎の声に被せるように透子は叫んだ。史絵の幼なじみで、妊娠が分かったとたんに姿をくらました透子の父親。写真一枚もなく、母子の話題にすら上らない存在。言葉のとおり、無責任な存在によってこの世に生を受けた透子。
「私だって生に父親になってくれ、なんてお願いするつもりはない。私の子ではあるけど、父親はいらない」
「真剣交際と言ってたのはやっぱり嘘だったのか」
「間違いなく真剣に交際してた。でもそれと妊娠は別物よ」
「お前の論理はむちゃくちゃだぞ。非常識にも程がある」
「私には世間の常識がわからない。ずっと前から、今も、これからも」
何か言いたげに口を開いた勢太郎は、忌々しげに頭を掻いた。そして少し棘のある口調に変わり、続ける。
「吉原は妊娠を知ってるんだな?」
「知らせていない」
「でも当然気付いているだろう」
「わからない」
「俺が話す」
「何を?」
「父親になる覚悟があるかどうかを確かめる」
「そんな権利、ないわ」
「俺はお前の父親だ。血は繋がっていなくとも確かめる権利はある」
「確かめたところでどうにもならない。彼には彼の人生があるもの」
「その子を私生児にするつもりなのか」
私生児。それはずっと透子が浴びせられてきた言葉だった。子供の頃から、大人たちのひそひそ話の中でよく耳にした。その都度史絵は透子の手を強く握りしめてくれた。言葉の意味を知ったのは中学生の頃だった。透子の実の父は思い出のかわりに、蔑む視線に耐える力を娘に与えた。
「父親がいなくても、子供は育つ」
透子の力強い言葉を聞いた勢太郎は、眉間に深い皺を刻んで透子を凝視した。
「・・・・・・それがお前の本心だったのか」
苦しげに呟いた勢太郎に、透子ははっとした。
「やはりお前は俺を、父親だとは思っていなかったんだな」
「・・・・・・・それは」
「父親面されて迷惑だったか」
透子は言葉を失った。すべては透子と勢太郎の関係性に繋がってゆく。深みにはまり始めていた。
「確かにお前は俺が何もしてやらなくとも、立派に育った。俺は不要だったな」
「私のことを言ってるんじゃない」
勢太郎はゆっくりと椅子から立ち上がった。透子を見下ろした勢太郎は、悲しそうにこう言った。
「・・・・・・腹の子のことはともかく、俺はお前の体が心配だ。お前に何かあったら、史絵に会わせる顔がない」
史絵。史絵史絵史絵史絵。透子は急激に全身の細胞が騒ぎ出すのを感じた。そして次の瞬間、言うつもりのなかった言葉が唇からいとも簡単にこぼれ落ちていた。
「そう・・・・・・父親なんて思ったことなんかないわ」
話を引き戻した透子は、強い視線で勢太郎を見上げた。
「知らないふりをしたのはそっちよ」
「透子」
「受け止める準備があるなんて絶対嘘。私の本心を受け止めるなんて不可能よ」
「・・・・・・透子、聞きなさい」
「父親なんかじゃない! 私はずっと前からあなたを愛してた!」
大きな声を出した拍子に透子は激しくむせ込んだ。勢太郎が慌てて駆け寄り、背中を支える。
「勢・・・・・・太郎・・・・・・」
透子は肩で息をしながらつぶやいた。困惑と哀れみの混じったような表情の勢太郎に、透子はふっと笑った。
「・・・・・・この子は、何があっても産むわ」
「透子!」
「私はこの子と生きていく。もう・・・・・・母の影を纏って生きていくのはうんざりなの」
「とう・・・・・・こ・・・・・」
透子の頬を、冷たい涙が一筋流れ落ちた。
「いまでも母を愛するあなたを・・・・・これ以上見ていたくないの」
勢太郎は何も答えられなかった。義理の娘がまだ、自分を男として見ていたことを受け入れきれていないようにも見えた。勢太郎の目からも、一粒の涙が伝わり落ちた。