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「もしもし、もしもし? 生?」
「・・・・・・・透子か」
「ねえ、今どこにいるの」
「病院の近くだ。これから行く」
「来てはだめ。どこか遠くに行くのよ」
「どうして! 君に会いに来たんだ、心配で」
「私は平気よ。どうあってもこの子は産むから大丈夫」
「俺は何の力にもなれないのか?」
「そうじゃない。生を守りたいの」
「透子・・・・・・」
「父はきっとあなたを許さないわ。ごめんなさい、私のせいで」
「覚悟は出来てる。俺は透子と子供を守る」
「父を甘く見てはだめ。殺されるかもしれない」
「先生はそんな人じゃないよ。心配しすぎだ」
「何かあってからでは遅いわ」
「・・・・・・俺ではその子の父親にはなれないのか?」
「・・・・・・」
「ひとりで産んでひとりで育てるなんて無理だ。君はまだ若い」
「母も私をひとりで育てた。きっと出来るわ」
「病気なのにか」
「・・・・・・・」
「俺は君と生きていきたいんだ。どうして許してくれない?」
「・・・・・・だって、あなたは今も勢太郎を愛しているでしょ?」
「透子・・・・・・」
「勢太郎よりも、この子を愛せる?」
「愛するさ!俺と透子の子供だ」
「愛すると愛せるは違うわ。それに、望まれた子供じゃないのよ。お互いに報われない相手の代わりに体を重ねた結果だもの」
「・・・・・・そんなこと言わないでくれよ」
「ごめんなさい。でも、子供に罪はないからこそ産む。そして私はこの子を誰よりも愛する。命をかけて」
「それは俺も同じだ」
「嬉しいけど、生には自分に正直に生きて欲しい。私の人生に縛り付けたくはないから」
「・・・・・・」
「生、大学に居づらくなるかもしれない。ごめんなさい」
「自分の責任だ。そんなこと透子は気にしなくていい。そんなことより子供が産まれれば、先生はきっと大事にしてくれるよ」
「勢太郎からは離れるわ」
「助けを拒むつもりか? 無茶だ」
「もう・・・・・・勢太郎のそばにはいられない。耐えられないのよ」
「透子・・・・・・」
「そろそろ切るわ。生、絶対に病院へは来ないで。勢太郎は毎日来るの。会ったら本当に・・・・・・・」
「透子! 待て、切るな!」
「元気でね。あなたが私を大切にしてくれたこと、本当に嬉しかったわ。そしてごめんなさい、心から感謝してる」
「透子!」
がちゃりと音を立てて、透子は電話を切った。売店に備え付けの公衆電話。後ろに並んでいた老婦人に会釈をして、点滴のスタンドを支えにして病室に戻る。エレベーターホールについて、ボタンを押す。ホールには大きな窓があり、花を植えた庭が見渡せる。ピンクとオレンジのパンジーが見事に咲いていて、高齢の患者が看護師に付き添われて散歩を楽しんでいるのが見えた。
史絵の好きな、ピンクとオレンジの花。彼女は女性らしい柄や色を好み、いつでもきれいに化粧をし、髪を巻く女だった。透子はガラスに映った自分を凝視した。
黒く長い髪は艶があるが、当然化粧はしていない。病気のせいで肌はさらに青白い。水色の病院着から、形の良い胸と最近大きくなってきた腹のふくらみが確認できる。病気で痩せ細った体に、アンバランスな腹の子供。
もし自分が男だったなら。
史絵のひとり息子だったなら。
勢太郎に芸術を学び、生とも良いライバルになり切磋琢磨できたかもしれなかった。彫刻が好きになった「ヴェールに包まれたキリスト」を実際にこの目で見てみたかった。いつか、大きな彫刻を彫れるようになりたかった。
勢太郎を愛さなければよかった。
エレベーターが到着した音が、ホールにポーンと響いた。静かに扉が開き、透子は点滴スタンドを押して中に入った。
透子は男の子を産んだ。臨月になっても病状が回復しない透子に、主治医は子供を諦めろと何度も言った。が、透子は決して首を縦に振らず命をかけて産んだ。
透子は子供とともに退院し、勢太郎の屋敷には帰らなかった。小さなアパートを借り、透子と子供はふたりで暮らし始めた。どれほど勢太郎が屋敷に戻るよう説得しても、透子は戻らなかった。近所の住民が、背の高い痩せた男が荷物を持って出入りするのを頻繁に見ていた。透子は滅多に外出をせず、日用品や食材を運んでいるようだった。
一年半ほど経った頃、アパートの前に外車が止まった。神妙な面もちの、彫りの深い中年男性。大家と話をしたあと、その男鹿山勢太郎は「碓氷」とネームプレートが張られた部屋に入って行った。極端に物の少ない部屋は掃除が行き届き、居間の真ん中には布団が敷かれており、仰向けに透子が横たわっていた。整った眠り顔は透子が愛した「ヴェールに包まれたキリスト像」のようだと、勢太郎は思った。
ここのところ往診に来ていたという町医者が、布団の横に正座している。小柄な女性看護師が奥で子供をあやしていた。子供が着ている水色のトレーナーと白いズボンは着古して生地がよれていた。子供は小さなウサギのぬいぐるみを持ったまま、看護師が読み聞かせてくれる絵本を真剣にのぞきこんでいた。
さきほど息をひきとられました、と医者が勢太郎に頭を下げた。勢太郎はその場に膝を落とし、そのままずりずりと透子の横たわる布団に近づいた。
眠っているかのような透子の額に、勢太郎は躊躇せず口づけをした。最後まで心を通わせられなかった義理の娘。誇り高く、美しく、媚びることを嫌い、孤独に生きた女。勢太郎の涙が透子の頬を濡らす。と、すぐそばで「まあま」と可愛らしい声がした。
顔を上げると、透子のひとり息子が布団のそばにぺたりと腰を下ろしていた。艶々の黒い髪と、つぶらな瞳を縁取る長いまつげは透子によく似ていた。亡くなったことを理解出来ず、透子の顔を触る。まあま、まあま、と繰り返す様子に、看護師が涙を滲ませた。
「双一・・・・・・」
ふたつとない、かけがえのないたったひとつの命。そんな意味だと生前の透子は言った。病院で産まれたばかりの双一に出会ってから、一年半。よく育っていた。
勢太郎は部屋を見渡した。透子が病身にもかかわらずこの部屋がきれいに保たれ、双一がすくすくと育っているのは、おそらく吉原生が関わっているのだろうと思えた。彼は大学を辞め今では連絡もつかないが、大家の話ではここ数週間は吉原に似た男が二日と空けず顔を出していたという。
どう考えても吉原との子供である双一。だが透子が「父親ではない」と言うのなら、それでいいと勢太郎はもはや思えた。誰が父親でもいい。かけがえのない命にほかならないのだから。
「おいで」
勢太郎が手を伸ばすと、双一は目をぱちくりさせ固まった。ほとんど初めて会う勢太郎に、少し怯えているようだった。ゆっくり優しく抱き上げると、おそるおそる勢太郎の肩をつかんだ。
「これからは、一緒に暮らすんだぞ」
「まあま」
「ママは少しおねんねだ。疲れているんだよ」
双一は勢太郎に抱き抱えられたまま、透子を見下ろした。もう一度顔に触ろうと懸命に手を伸ばす姿に、勢太郎の心も痛んだ。医者と看護師は静かに立ち上がり、勢太郎に会釈をして部屋を出た。
双一は正式に鹿山勢太郎に引き取られることになった。小さな田舎町ではそんなこともいちいちニュースとなり、双一は「親戚の子供」として扱われた。このときまだ存命だった勢太郎の母親が、幼い双一の子育てを手伝うことになった。
義理の父親を愛し、母親と同じ病気を患い、命を懸けて双一を産み落とした碓氷透子は、結局「鹿山」の性を名乗らないまま二十一年と半年の短い人生の幕を閉じた。女でありたくないと苦しみながら、ひとりの女として勢太郎の愛を欲し続けた彼女は今、母親の史絵と同じ墓で眠っている。数年間、彼女の月命日には白と青の花が誰かの手によって欠かさず供えられていたという。
透子の気高さ、美しさはひとり息子の双一に引き継がれ、透子が決して得ることの出来なかった勢太郎の愛情を一身に受けることとなる。
了