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マンションのエントランスを抜け、カードをかざすと自動ドアが開く。
エレベーターを下りて、すぐ目の前の部屋のドアを開ける。誰もいない空間が、痛いほど冷え切っている。
晃史は、スーツの上着を脱いで、コーヒーを淹れた。離婚してからほとんど自炊もしない。汚れたグラスやビールの缶がたまる一方で、冷蔵庫にも、ほとんど食材が入っていなかった。
別れた妻が最後に言った言葉が蘇る。
突き通せないなら、嘘なんてつかないでよ。
嘘をついているつもりはなかった。隠し通すつもりだった。結婚すれば忘れて暮らせると自分に思いこませていた。しかし妻は、夫の違和感に気づいた。そして晃史自ら最悪の事態を招いた。
晃史は、コーヒーカップを持ってリビングに移動した。ソファに腰掛けると、窓際のキャビネットの上の花瓶が目に入る。活けたままの白い花がしおれかけていた。それが、晃史の気持ちを余計に重くした。
まだ微かに残る芳香が、晃史にあることを思い出させた。
『失礼ですが、香水、どちらのですか?』
同じ部署の、橋口 柾。飄々とした、つかみどころのない男。特に目立つでもないが、同僚には好かれている。仕事の質は悪くないが、早くはない。穏やかというよりは、のんびりしている。
そんな部下に、まさか気づかれるとは。
思い出して、晃史は自分の首筋に指を這わせた。
どうしても変えられない唯一のもの。髪型や洋服、話し方や表情。理想の姿を作り上げる努力をしてきた晃史だが、当然自分の身体から漂う香りまではコントロール出来ない。決して漏れないように、細心の注意を払ってきた。それなのに。
晃史はネクタイを緩め、ワイシャツの襟をぐいと広げた。わずかな汗と混じる甘い香りが立ちのぼる。
橋口 柾。
何かがひっかかる。
気のせいだと、晃史は考えるのを止めた。