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「ずいぶん懐いたもんね。何したの?」
「何もしてないわよ。言っとくけどハメてもないからね」
弘海に拾われた史は、それから店にやってくると、弘海のそばにまとわりつくようになった。カウンターに腰掛け、理玖ともよく話した。行きずりの相手と店を出て行く回数は激減し、史は相手をよく吟味するようになった。ただ飲んで帰る日も度々あった。それでも史目当ての男たちは次から次へとやってきたが、前ほど声をかけても簡単に交渉成立しないことに苛立ちを募らせていた。
そしてこの日は、少し様子が違った。
「お前、何様のつもりだよ」
テーブルを叩く音と、野太い声が店内に響く。
ガタイのいい、似合わない高級スーツの成金風の男が、史の顔にグラスの酒を浴びせた。史は掌で顔を拭って、冷たい瞳を男に向けていた。
「・・・冷たいな」
「調子に乗りやがって!」
男に襟首を捕まれても、史の表情は変わらなかった。それが、男の気持ちをさらに逆撫でした。椅子やテーブルをがたがた言わせながら男は史を床の上に押し倒した。殴ろうとして振り上げた手を、まわりの客たちに止められる。男は何か叫んでいたが、連れになだめられ店の外に連れ出された。
残った史は酔った様子もなく立ち上がり、割れたグラスに手をのばした。
「危ないわよ」
弘海は後ろから声をかけ、史の横にしゃがみこんだ。
理玖が、ぶつぶつ言いながら割れたグラスの破片を掃き集める。
「・・・取引先」
「え?」
「仕事の取引先の人・・・怒らせたみたい」
「・・・うそでしょ?」
自分を押し倒したのは、取引先の若社長だったと史はぼそりと答えた。
今まで何度か、酒の席で身体を触られたり、抱きつかれたりしたが、今日はっきりと、取引締結の見返りに身体の関係を求められた、と話した。
「断ったら、キレられた・・・」
「が・・・がんばったじゃない」
「でも・・・取引が・・・」
弘海は史の頭をポンと叩いた。
「ああいうのは一回許したら続くわよ。取引の度に寝てたら、ずぶずぶの関係になっちゃうし。そういうの、セクハラっていうんじゃないの?」
「・・・・・・」
「いいじゃない、次の仕事がんばれば・・・」
それでも史は何も言わず俯いたままだった。弘海がどうしたの、と聞くと、聞き取れないほどの小さな声で言った。
「クビになるかも・・・」
「えっ?」
ワンマンで有名な取引先の若社長は、今まで多くのトラブルを起こしてきたが、父親である会長の力で全て握りつぶしてきたそうだ。
気に入らない者は、すぐに首を切る。取引先であれば、クレームが入るだろうと史は言った。
「それじゃ本当にクビになるかもってこと・・・?」
「うん・・・」
割れたガラスの破片を集めていた理玖が、弘海と史の会話を聞いていた。
挨拶を交わすぐらいの軽さで、理玖は言った。
「クビになったら、うちでバイトしたら?」
弘海と史が同時に顔を上げた。
「ちょ・・・っと、ママ、何言って」
「いいんですか?」
声を上げたのも同時だった。
「弘海が可愛がって、こんなことになっちゃったんでしょ?」
「あたしのせいだっていうの?」
「そうは言ってないけど・・いいじゃない、あんたが教えてあげなさいよ」
「この子がボーイなんて出来る訳ないじゃない!」
「やってみないとわかんないわよ」
「人ごとだと思って適当なこと言って・・・」
「あんたじゃなくて、史に言ってんのよ?どう?」
「史!こんなおっさんの言うことなんか聞かなくていいから!」
「おっさんじゃないわよ!おばさんよ!」
理玖と弘海がぎゃあぎゃあ騒いでいる横で、申し訳なさそうに史が言った。
「本当に・・・使ってもらえるんですか」
弘海は史の肩を掴んだ。前後に揺らしながら弘海は大きな声で言った。
「あんた、何考えてんの?」
「弘海が教えてくれるんだよね?」
「馬鹿じゃないの?」
「弘海が側にいてくれるんなら、出来る気がする・・・」
「・・・なっ・・何言ってんのよ・・・」
弘海が照れたタイミングで、理玖がパン!と手を叩いた。
「はい、決まりー」
「ちょっと、そもそもまだクビになったかどうか・・・」
「あ、そうか・・・」
三人がそれぞれ好きなことを言って笑った。
そしてその一週間後、本当にクビになったのか、自発的に辞めたのかは分
からないが、史は、「Lick」のバイト面接にやってきた。