メニュー
カウンターの向こう側で氷にピックを突き立てている史に、客たちは驚きざわめいた。弘海の言いつけで、カウンターは出られなかったが、そこにいるだけで何人もの客が代わる代わるやってきた。
「ほんとにこんなことになるなんてね・・・」
弘海は水割りのグラスを史から受け取った。史はにっこり笑った。
「やれば出来るもんだね」
「・・・教える人間が良いのよね」
「そうだね」
「・・・素直じゃないの」
「弘海のおかげだよ」
弘海は何とも言えない表情で史から視線を逸らした。
カウンターの奥で、理玖がにやにやしている。それに気づいた弘海がぎろりと理玖を睨んだ。
弘海は、手際よくドリンクを作る史の横顔を、少し離れた席から盗み見た。ぼろぼろになっていた史に声をかけたとき、こんな穏やかな表情を見られるとは思っていなかった。初めての体験とは思えないそつのなさに、弘海は閉店した後に史に尋ねた。
「初めての割に、ずいぶん手慣れてたわね」
「うん。合うのかも、サラリーマンよりこういう方が」
「・・・たまたまよ。ビギナーズラックってやつ。あんたはこっちに足を踏み入れたらだめよ」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
食器を洗い終わった史が、カウンターをくぐった。弘海の横に腰掛け、穏やかな瞳を向けた。無意識に、史との距離を取りながら弘海は答えた。
「これは一時的なものでしょ。ちゃんと次の仕事見つけて、いつかは復帰しないと・・・」
「ずっと・・・ここにいたらだめかな」
「・・・だめよ。あんたには無理」
「・・・助けてくれたのは弘海なのに」
「それは、まさかこんなことになるとは思ってなかったのよ!結果、引きずり込んじゃって悪いとは思ってるけど・・・」
「悪くないよ。感謝してる」
「・・・そう」
まっすぐ見つめてくる史の瞳が、弘海の心を揺さぶった。神懸かってるという噂が頭をよぎるが、それは打ち消して言った。
「まあ、仕事が見つかるまでの短い期間だから・・・いる間はよろしく頼むわ」
史の表情が明るくなった。弘海は店閉めるわよ、と言って立ち上がった。
裏口の鍵を締めて外へ出ると、なま暖かい風が吹いていた。そろそろ暑くなってくる時期だった。
大きく体を伸ばして、歩きだそうとして弘海は足を止めた。
「史、どこいくの?あんたの家、こっちって言ってなかった?」
「・・・満喫行こうかなって・・・」
「え?」
「・・・仕事やめてから、家賃払えなくなって・・・・」
「は?!」
「汚いけど、適当に座って」
「・・・お邪魔します」
家賃を払えなくなって、友達の家を渡り歩いていたという史を、弘海はくどくど説教しながら自分のアパートに連れてきた。
そこらへんに転がっているビールの空き缶をガラガラとゴミ袋に投げ込んで、空いたスペースに弘海はどっさり腰を下ろした。
携帯をいじりながら後ろで束ねていた髪を解いて、弘海は言った。
「風呂入る?入るなら沸かすけど」
「あ・・・いただきます」
史の前を通り過ぎて、風呂場に向かう。水の音と、弘海の鼻歌が聞こえてくる。冷蔵庫を経由して、冷えたビールとコーラを持って戻ってくる。
「どっち?」
「えと・・・コーラ」
「ん」
史にコーラを手渡し、弘海はビールを空けた。テレビをつけると、すでに早朝の番組で女性アナウンサーがおはようございます、と言って笑っている。
「あ、そうだ」
弘海が大きな声を出して、史の方を振り向いた。
「布団・・・」
「布団?」
「ないんだよな・・・ダブルベッドしか」
「え?」
弘海は史を手招きして、隣の部屋のドアを空けた。そこには安いアパートには不似合いな、大きなダブルベッドが鎮座していた。
「狭くないとは思うんだけど・・・平気?」
史は、大まじめな弘海の顔を見つめたが、吹き出して笑い出した。
「なんで笑って・・・」
「だって弘海、女の子に言うみたいに・・・」
笑う史につられて、弘海も笑い出した。
その後ろで、風呂が沸いたお知らせ音が鳴り響いた。
「先に入って。俺ちょっとメール」
「あ・・・うん」
史は立ち上がって、風呂場に向かったが、不意に立ち止まった。
振り返った史に気づいて、弘海が携帯から顔を上げた。
「ん?あ、タオル適当に使えよ」
「・・・・・」
「何?どした?」
「・・・新鮮」
「なにが・・・・あ」
オネエ言葉じゃない弘海を、史は目を見開いて見下ろしていた。
弘海はなぜか気恥ずかしくなり、ぶっきらぼうに答えた。
「あれは・・・仕事用。オネエの方がよければそっちでもいいわよ」
「こっちの喋り方の弘海も好き」
「・・・あー・・・はいはい」
弘海は、史の使うシャワーの音をバックにビールを飲み干した。
ダブルベッドのシーツを変えて、使っていなかった枕をひとつ足した。
風呂から上がってきた史は、着痩せする身体を弘海の大きなTシャツを着て、テレビを見ている。
「寝てていいよ」
「うん」
弘海が風呂から上がって来たとき、大きなベッドのスペースの端っこに、申し訳なさそうに身体を丸めて、史は寝息をたてていた。
弘海がベッドに入っても、小動物のような体制で史は目を覚ますことはなかった。
慣れない仕事で疲れた身体は、いつもの史よりもずいぶん小さく見えた。弘海は、史のさらさらした黒髪をそっと撫でた。
寝息はほとんど聞こえないほど、穏やかだった。
背中と背中を合わせて、弘海と史は初めての夜を静かに過ごした。