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それは冷たい雨の降る夜。
最初は夢だと思った。
「君は……」
フィンリーがそこに佇んでいた。私の書斎の片隅、窓の側に置いた白い蘭の鉢の前に。
そんなはずがない。
彼は一年前、帰らぬ人となった。
雨音と、ラフマニノフだけが響く部屋で、私はフィンリーの幻と対峙していた。
「ジョシュア。僕が幻だと思っているの?」
「フィンリー、だって、君は…」
「幻だと思うなら、ここへ来て」
フィンリーは両手を広げて微笑んだ。その笑顔も声も彼のものだ。
だが私は動けずにいた。
「君は、幻だ」
「信じて、ジョシュア」
「嘘だ…」
幻は、悲しそうに首を傾げた。それでも私は首を横に振った。
「こんな雨の夜更けに、僕の前に姿を現すなんて…幻だとしても、残酷すぎる…」
「ジョシュア……僕は、あなたが呼んだから、来たんだ」
フィンリーは、窓に掌を当て、ガラスを軽快な音で叩く雨を見やった。
私がはっきりと覚えているフィンリーの節くれ立った長い指。中性的な外見に似合わない、男の手。
「呼んだ?私が…?」
「雨が降ると、あなたの声が聞こえる」
それは、雨の音が、私の未練がましい声を消してくれるから。
だから雨が降る度に思い出す。
君のすべてを。
「ジョシュアが泣くのを、ずっと聞いていたよ」
「泣いてなど……」
「僕にはわかる。涙を流さなくても、あなたは泣いてた…」
忘れられるはずがない。病に倒れた彼の命と自分の命と引き替えにしてもいいほどに、愛していた。
たった一度だけ、身体を重ねた君を。
「ジョシュア…ここへ来て。僕に触れれば…信じられるよ」
フィンリーはもう一度、両手を広げた。私の足は、勝手に吸い寄せられて彼の佇む窓際に近づいて行った。
決して触れることの叶わないはずの彼に、触れるために。
目の前の幻に、私は呼吸を忘れた。
フィンリーの瞳に私が映っている。私の瞳には、フィンリーだけが映っているはずだ。
その頬に手を伸ばす。その私の指を、フィンリーが握る。
爪の先に、フィンリーの唇が寄せられた。
温かな感触は、まぎれもなく生身の人間のものだった。
「泣かないで…ジョシュア」
フィンリーは私の手を離さずに微笑んだ。
泣かないで、と言われて、自分が本当に涙を流していることに気がついた。
「フィンリー…どうして…私をおいて…逝ったんだ…」
「……それが僕の天命だった」
「そんな…そんなこと、受け入れられない…」
「……悲しまないで。僕はいつでも、あなたを愛しているから」
「フィンリー…っ…」
フィンリーの腕が、私を包み込んだ。忘れられないその髪の香り。
私はフィンリーの唇に指の先で触れた。確かな感触。
それをしっかりと確かめるように、私は彼に口づけた。
「どこにもいかないでくれ……もう、私をひとりにしないでくれっ…」
「ジョシュア……」
悲しみが尽きることなどありえない。忘れられるはずがない。
私はフィンリーの手をしっかりと握った。彼が二度とどこにもいかないように。
「僕はずっと見守っていたよ。あなたが朝、目を覚まして、夜眠るまで…」
フィンリーが亡くなったことを聞いてから、無味乾燥な日々に変わってしまった私の生活。
生きていること、呼吸することすら無駄に感じていた。
沈んだ気分を誤魔化すために、酒ばかり飲んだ。
眠りにつくとき、このまま二度と目覚めたくないと何度考えたことか。なのに朝は来て、また無意味な一日を繰り返さなければならなかった。
「どうか私を連れていってくれ…これ以上君のいないこの世界で生きていても、意味がない……っ」
「ジョシュア、僕はそのために来たわけじゃない」
フィンリーはまた、悲しげな表情で私を見つめる。そして窓の外につと視線を移した。
「あなたの周りには、たくさんの美しいもの、優しいものが溢れてる。暖かい日の光、心地よい風、鳥のさえずりや、花の香り…あなたを愛し支えるものは、この世にたくさんあるのに…」
「それだって君が居なくなってから、何の意味も持たない……むなしいばかりだ」
「ジョシュア、それはあなたが見ないようにしているだけ……みんなあなたを愛しているのに」
「私が欲しいのは君からの愛だけだ!」
「……悲しいことを言わないで」
フィンリーの顔が曇った。そんな表情を、彼の生前に見たことはなかった。
しかしすぐに笑顔を取り戻し、フィンリーは言った。
「生きとし生けるものは、みな助け合い、支え合い愛し合うべきだと教えてくれたのは、あなただったのに。どんな小さな命でも、ひとりで生きていくことはできないと……」
植物学者の私を支えてくれた、助手のフィンリー。
私の教えをひとつと取りこぼすことなく吸収した、優秀な青年だった。
「ジョシュア……もう一度、あなたの世界に目を向けてください。あなたの愛を待っているものたちが、あなたに愛を与えたいと願うものたちがいる…あなたを愛しているのは、僕だけじゃない」
「フィンリー……」
「あなたのそんな荒廃した様子を、僕は見ていたくない……優しく慈愛に満ちたジョシュアに戻って欲しい。そうすれば僕は、安心して旅立てるのだから」
「旅立つ…だって…」
せっかく、奇跡が起きて再び出会えたのに。
「嫌だ…行くな、フィンリーっ…」
「……信じられないの、ジョシュア」
少し語尾を強めてフィンリーが私に尋ねた。
何を、信じろというのだ。
「信じる……って何を…」
「あなた自身を」
フィンリーは、まっすぐ私の瞳の真ん中を見据えた。それは、怒っているようにも見えた。
どうして怒っているのだ、私は君だけを愛しているのに。
「あなたはもっと強いはず……僕がいない世界でも、あなたにはやることがある。どうか思い出して、あなたの役目を」
「やく…め……?」
「この世に生を受けたものには、なんらかの役目があるとあなたが教えてくれた。太陽、樹木、花、土、虫たち……そして動物、人間にも……」
「役目など……今の私には考えられない…っ…」
「ジョシュア。外を、見て」
フィンリーは、窓の外を指した。
外は雨。
日が落ちてから、ずっと降り続く雨は勢いを増し、いまやまるでバケツをひっくり返したようだ。このまま止むことなく降り続けるのではないかと思えた。
「この雨が止まなかったらどうなるのか…あなたはよく知っているでしょう?降り続ける雨が、恵みの雨にはならないことを……あなたの悲しみも永遠に続くわけじゃない」
「フィンリー……」
「僕は、この雨が止む頃にはあなたの目には映らなくなる」
「そんな……っ!」
「やまない雨はない。そうでしょう?」
私は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
私の背中に、フィンリーはそっと手を添えた。一度止まったはずの涙がもう一度溢れて、床を濡らした。
「目に見えなくても、触れることが叶わなくても、僕はあなたの側にいる。だからジョシュア、あなたは前を見て……」
私はフィンリーを見上げた。
フィンリーは私に、口づけした。
「朝日が昇る頃、どうかあなたは笑って……生きて、ジョシュア」
冷たい床の上で目が覚めた私はひとりきりだった。
あれが幻だったのかどうか、私にはわからない。
はっきりと覚えている彼の唇の温かさだけが、唯一の記憶。
雨は上がっていた。
フィンリーの言った通り、朝日が昇り、彼が立っていた窓から眩い光が差し込んでいた。
私は窓際に立ち、朝露で輝く庭の木々や花を見下ろした。
それらはまるで、私が彼らに気づくのを待っていたかのように咲き誇り、太陽に向かって枝や葉をのばしていた。
生きて、と彼は言った。
私は頬を伝った冷たい涙を拭った。
そして、そのとき初めて気がついたのだ。
足下に無惨に散った、蘭の花を。
昨日まで、変わりなく咲いていた。散る気配など、なかったというのに。
あれは、フィンリーではなかったのか。
私をずっと愛情深く見守っていたのは、彼ではなかったのか。
生きて、と言ったのは……
私は、落ちた花びらをすくい上げ、口づけした。
許しを請いながら。
完