メニュー
「葉山、こっちこっち~」
仁科先輩はすでに出来上がっていた。浴衣の襟合わせからのぞく首筋がかなり赤い。このひとの和服姿はつくづく心臓に悪い。
「もう出来上がってんじゃないすか・・・あ、俺ビールください」
「ここの肴、うまいのよ。酒が進むのなんのって」
俺は出来るだけ自然に先輩の横に座った。それだけで彼の体温が高いのがわかる。肩が触れるか触れないかの近さを俺はキープした。
「葉山ぁ」
「はい?」
呂律が怪しい。目の端が少し赤くなっている。
「なんだよ、也(なり)くんって」
「・・・はい?」
「さっき、弓が、也くんって呼んでたじゃねえか」
「・・・俺もよくわからないんですよ。そうやって呼ばれたことなんかないんですけど」
「気に入らねえなあ」
「な・・・何もないですよ、弓さんとは」
「・・・お前、馬鹿か」
「へ?」
「弓より俺の方が、お前とつき合い深いじゃねえか」
「ええと・・・」
助けてもらったのはつき合いが深いことになるのか?会ったのは高校卒業以来のはずだけど・・・奥さんより俺のほうがってどういうこと?
何に、どっちに対して嫉妬してるんだ?
「なのになんで、俺が名字で、弓が名前呼びなんだよ」
え?そっち?
「いや・・・それ俺がどうにか出来る問題じゃなくないですか」
「じゃあ俺も名前呼びする」
「ど・・・どうぞ・・・」
「名前なんだっけ」
「・・・・・・・・」
「冗談だって!んな顔すんなよ」
仁科先輩はげらげら笑った。本当に忘れていたらどうしよう。この人ならあり得る。
あなたの名前は死んでも忘れませんけどね。
「なりひと、だろ?言いづれえな」
「・・・親に言ってくださいよ」
「じゃあ、也。なり、って呼び捨てなら、弓よりレベル高いよな」
「なんのレベルっすか」
「うーんと、親密度?」
けたけた笑いながら、仁科先輩はまた酒を煽る。
ひどく陽気な先輩の様子に、俺は違和感を感じていた。もともとよく飲むひとだけれど、今日の飲み方はちょっとおかしい。
「先輩、飲み方危険じゃないすか」
「ぁあん?」
「ちゃんぽんしすぎですよ。悪酔いしますよ」
「お前がいるからいいじゃん」
「・・・そのために呼びました?」
ふふ、と仁科先輩は笑って、再びグラスに残った酒を煽る。
「お前もさあ、先輩呼び、どうにかなんねえの」
「先輩は先輩ですよ」
「面白くねえやつ・・・」
仁科先輩の目はもう閉じかけている。半目どころのレベルじゃない。このままでは寝てしまう。
「先輩、ここで寝ないでくださいよっ、ほら」
「う・・・ん・・・」
俺の心配は的中した。5分もしないうちに、仁科先輩は落ちた。どうやら食事をほとんどせずに飲んでばかりいたらしい。
仁科先輩をかついで店の外に出たものの、ちゃんと歩いてくれないので、俺までよろける。
仁科先輩の家まではタクシーなら10分。酔っぱらいが歩くのはちょっと難しい距離だ。
「先輩、奥さんに電話しましょう。もしかしてまだ女子会中かも・・・」
「・・・ねえよ・・・」
「えっ?」
「弓は・・・今日・・・帰ってこねえよ・・・」
「・・・先輩・・・?」
「・・・帰りた・・・ない・・・」
帰りたくない、と言った。
あの仁科先輩が。
これは、つまり、本当にこの夫婦は・・・うまく行っていないのか?
「・・・也ぃ・・・」
早速名前で呼ばれるが、それどころではない。
仕方なく、近くの公園のベンチに引きずって連れて行った。自動販売機で水を買って戻ると、横たわったままの仁科先輩はうっすら目を開けていた。
「先輩・・・大丈夫ですか?」
「・・・飲み過ぎたぁ・・・」
「水飲みます?」
素直にこくりとうなづいて、先輩はボトルを受け取った。もたつきながらキャップを開けて、勢いよく喉に流し込む。水が唇の端からこぼれ落ちるのを、ついじっと見てしまった。
「・・・・・・悪りぃな・・・迷惑かけて」
「迷惑じゃないです」
「やっぱお前、いい奴だな」
「・・・違いますって」
起こしてくれ、と言うように先輩は俺に向かって腕を伸ばした。俺は気持ちを落ち着けて、先輩の腕を取った。
思いのほか力強く引っ張られ、俺の足がよろめいた。ベンチに尻餅をつくようにどすんと落ちた。先輩は俺の胸に頭を預けたかたちになった。
「す・・・すいませ・・・」
「・・・情けねえよな・・・」
「先輩・・・」
それ以上は先輩は何も言わなかった。
多分、わかっているのだ。
奥さん・・・いや、「山口弓」が誰かと浮気していることを。そして、俺の勤めるホテルラソンブレで彼らが逢瀬を重ねていることも。
仁科先輩は俺の胸から顔を上げなかった。
泣いてはいなかった。
でも俺は、先輩の髪をそっと撫でた。
学生の頃、先輩が俺にしてくれたみたいに。