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酔いつぶれた先輩がしっかり目を覚ますのを待って、俺はタクシーを拾った。
家まで送り届けて、先輩が自宅のドアを閉めるのを見届けてから、その場を離れた。
「山口弓」が、本当に留守なのかはわからない。リビングの大きな窓からは光が漏れていたから、もしかすると帰っているのかもしれない。
確認することは出来ないけれど。
何とも言えない気分だった。
本当に夫婦仲が悪かったとして、俺にチャンスが巡ってくるわけじゃない。
一足す一は二、なんて簡単に片付かないのが俺のいる世界なのは解っている。今夜先輩が俺に寄りかかって来たのだって、酒の力がほとんどだ。
だけど。
触れられなくたっていい。
先輩と後輩のままでいい。
あの人が好きで好きで、どうしようもない。
高校時代と何も変わっていない。あの人は俺のヒーローなんだ。
悲しむ姿だって本当は見たくない。
俺と飲んで気が紛れるならどこまでだってつき合う。また酔いつぶれたら、朝まで介抱する。
俺の、あの人に抱く恋愛感情や邪な思いが、潰れてぺしゃんこになったってかまわない。
最初から叶うはずのない恋だったんだから、今更怖いものなんかない。
☆
目が覚めると、携帯のアラームがやかましく鳴り続けていた。
手探りで止めて、一つ伸びをする。
大きく息を吐き出すと、昨晩の記憶がじわじわと戻ってくる。
仁科先輩は眠れただろうか。
彼女は帰ってきたのだろうか。
今日、出勤して「山口弓」が次はいつ、予約を入れているのかチェックしてやろうかとも思ったが、それすらも腹立たしい。
携帯を手に取り、何気なく操作するとメッセージが何件か入っていた。
どうでもいいDMが1件、そのほかは母親の名前と、仁科先輩の名前が縦に並んでいた。
前のふたつをすっ飛ばして俺は仁科先輩からのメッセージを開けた。
(昨晩は迷惑かけてごめん。也が嫌じゃなかったら、また飲もうな)
たったそれだけのメッセージに、仁科先輩の精一杯の気遣いが見て取れた。
本当に、名前で呼んでくれている。
酔った勢いじゃなかった。
それにしても、この人は弱みを見せたことについて、何の弁解もしない。
素の部分を見せてくれたことは正直に嬉しいが、俺が先輩の立場だったら、何も聞くな、周りには黙っていてくれ、と言ってしまいそうだ。
信用してくれているのかもしれない。
だったらなおさら、俺の先輩への気持ちは出すべきじゃないだろう。
(嫌じゃないです。また飲み、誘ってください。待ってます)
最後の「待ってます」をつけるかつけないかで、10分迷った。結局、本当に誘ってくれるのを待っているのだから、かまわないと思って送った。
時計を見ると、やばい時間になっていた。
あわててシャワーに飛び込み、制服を鞄に詰め込み家を飛び出した。
途中の信号待ちで、そういえば母親からもメッセージが来ていたことを思い出した。
あまり良くない内容の気がした。
ため息をつきながら確認すると、悪い予感はしっかりと的中した。
(話があるから、着いたら部屋に来て)
オーナーである母親は、未だに週に3日出勤している。今日はそのうちの一日だった。
とうとうその時が来たらしい。見合いの件だろう。
俺は母親の番号にかけた。
「はい、もしもし」
聞き覚えのある不機嫌な声だった。一呼吸おいて俺は言った。
「話ってなんだよ」
「着いたら話すって送ったでしょう」
「職場ではやめてくれないか」
「電話にすら出ないくせに何言ってるの」
「・・・見合いなら断ったよな」
「あなたの一存でどうにかなるものじゃないわ」
周りに人がいるのか、柔らかい口調だが刺がある。これ以上は電話では埒が明かない。
「・・・もう着くから。あとはそっちで聞く」
母親は無言のまま、電話を切った。子供の頃から、彼女がこうなるとあまりいいことはない。
俺は携帯を鞄に放り込み、大股で横断歩道を渡った。