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「オーナー、葉山です」
社長室、と書かれたちゃちなプレートが張り付けられた小さな部屋。
他の社員の手前、丁寧にノックする。
中から不機嫌さを押し殺した母親が、どうぞ、と答えた。
ドアを開けて、母とは目を合わさず、彼女と向かい合うソファの前に立った。
「座りなさい」
「・・・ここでいい。それよりさっきの話だけど」
「少し大人になったらどうなの」
「意に沿わない結婚をすることが大人になるってことじゃないだろ」
「何が不満?同級生がそんなに嫌なの?」
母親は何も知らない。
当事者の俺だって真相は解らないが、仁科先輩と、五十嵐梨子の兄が敵対していたのは紛れもない事実。あの頃、クラスの同級生に俺がゲイだと触れ回ったのは、もっぱら妹の梨子だという噂だった。
「同級生だからだけじゃない。俺は誰とも結婚するつもりはない」
「馬鹿なこと言わないで!」
ぴしゃりと言い放たれて、一瞬言葉を失った。子供の頃に怒鳴られた記憶が蘇る。
母親は腕を組み、はあ、と大きく息を吐き出した。
「あんただけの問題じゃないのよ。お父さんは也仁に継がせたいと本気で思っているの。結婚したくないなら、どこかよそで働くのね」
「・・・・・・」
「母さんだってこんなこと言いたくないわ。あんたがこんなに頑なだとは思わなかった」
「・・・五十嵐梨子はやめてくれ」
「・・・・・・也仁」
「詳しくは言えない。誰かと見合いするにしろ、五十嵐だけは勘弁して欲しい」
俺は手を強く握り、母親の目を見据えた。ここだけは譲れない。たとえもう一度仕事を無くすかもしれなくても。
「困ったわね」
「え?」
「今夜、いらっしゃるのよ」
「・・・は?」
「五十嵐建設さんとの会食があるの。その時、梨子さんと会わせようと思ってたのよ」
俺は握っていた手にさらに力を込めた。爪が肉に食い込んでいる。
五十嵐兄妹の父親は、この町の有力者だ。俺の父親との親交も深い。
都会には都会の欠点、田舎には田舎の欠点がある。俺は、ある意味傲慢なこの感覚を忘れていた。
眉間に深い皺を寄せて自分を睨んでいる俺に向かって、母親は怒気を込めた声を出した。
「とりあえず、今夜だけはどうにか乗り越えて頂戴。そのあとのことは、お父さんとも話し合いましょう」
俺はうなづきもせず、母親のに背を向けた。
彼女の刺すような視線を浴びながら、俺は社長室を出た。
☆
家に帰ったのは、夜中だった。
強引に開催された五十嵐建設との会食は、9時には終わっていた。
でも気持ちが重すぎて帰る気になれず、ひとりで近くの居酒屋で飲んだ。
閉店ぎりぎりまで粘って、千鳥足で家路についた。
玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨てると、そのままの格好でふらふらとベッドに仰向けになった。
空気の冷えたアパートの無機質な天井を見上げ、俺は今夜あったことを反芻していた。
(ずっと葉山くんに話したいことがあったの)
会食のあと、それぞれの両親から離れた場所で、五十嵐梨子がそう言った。黒いノースリーブワンピースに白の薄手のカーディガンを肩にかけていた。学生時代背中まであったストレートの髪は、今はゆるく巻かれている。
清楚なタイプの女子だったが、30になってもその雰囲気は変わらない。
(え?)
食事の間はお互い目を合わすことも無かった。よそ行きの笑顔を張り付けて、どうでもいい話に相槌を打った。
五十嵐梨子は時折俺の様子を伺うように、ちらちらと視線を寄越したが、気づかないふりで通した。
話したいこと、と言われて、こめかみが勝手にぴくりと動く。
(覚えてる?黒板に・・・)
(・・・さあ、そんなことたくさんありすぎて、どれか解らないけど)
嘘だった。
確かにしばらく黒板いっぱいに落書きされるいたずらは続いたが、最初の日の衝撃は未だに覚えている。毎日の落書きが10日ほど過ぎた頃から、俺は誰とも喋らなくなった。仲村とも。
(どんどんエスカレートして行っちゃって・・・騒ぎを止められなくて、申し訳なかったと思ってたの)
火を付けた当本人が何を。俺以外全ての生徒が面白がっていたことは知っている。そもそもあんたが広めたんじゃないのか、と言いたいのをぐっと飲み込み、俺は低い声で返した。
(・・・申し訳ないって、どういう意味?)
(あたしが先導したと思ってるよね)
(・・・俺は、あの時のことはもう思い出したくない)
(葉山くん、聞いて、あの・・・)
俺は無言で彼女を睨んだ。視線が答えになればいいと思った。
しかしそれは無駄だった。
(あれは違うの!あたしは兄からも何も聞いてなかったし)
(じゃあどうしてああなった?!)
こらえられなかった。気づいたら大きな声が出ていて、自分でも驚いた。
彼女はびくっと肩を震わせたが、必死に食らいついてきた。
(あの前の日、仁科先輩が約束をすっぽかしちゃったから・・・)
(・・・何だって?)
仁科先輩の名前が出て、急に体温が上がり始める。動揺しているのを見せないように、スラックスのポケットに両手を突っ込んだ。
(友達の中に仁科先輩とつき合ってた子がいたの・・・あの前の日、その子の誕生日だったんだけど、先輩と兄のいたグループとで喧嘩になっちゃって、約束してたのに会いに来てくれなかったって・・・)
俺が五十嵐の兄にぼこぼこにされた日だ。通りがかった仁科先輩が助けてくれなかったら、骨折くらいしてたかもしれない。
それにしても、くだらない理由だ。
五十嵐の言い分としては、その誕生日をすっぽかされた女子が、廊下でわんわん泣きながらあることないことわめき散らしたという。
最初は仁科先輩の悪口だったのだが、いつのまにか、庇われた矛先が俺に向いた。
誕生日の約束より優先されてしまった俺に対しての嫉妬なのか。
それを面白がった同じクラスの男子生徒がピンク色のチョークで「ホモ」と一言書き始めたのがきっかけとなり、俺が学校に着く頃には、緑色が全く見えないほどカラフルな悪口で黒板は埋まっていた。
(みんな、あたしが兄から聞いて言いふらしたって言ってたけど、違うから!あれは・・・)
(・・・同罪だろ)
(え?)
(面白がってたじゃねえか。あんたも)
(ちが・・・)
つい口調が荒くなった。また母親に小言を言われるんだろうが、どうでもいい。クラス中、いや、学年中の好奇の視線を思い出す。その中に、まぎれもなく五十嵐梨子もいた。
どうして俺が、こいつと結婚しなきゃならない?
(原因がなにかなんてどうでもいいんだよ!どいつもこいつも、無責任に騒いでただろ?俺にとっちゃ同じなんだよ、そのすっぽかされた奴も、あんたも、他のやつらも!)
たかだかガキのいじめ。今でこそ社会問題だが、当時は高校生にもなって学校であったことを親に言うなんて恥ずかしい、という風潮があった。そう言う意味では、今の若者よりも自立していたのかもしれない。
教師はもちろん見て見ぬ振り、俺はひとり、アイデンティティを傷つけられながら意地で登校し続けた。
まだはっきりと自覚すら出来ていないセクシュアリティをずたずたに切り裂かれて、俺の精神は崩壊寸前だった。
ぎりぎりの俺を支えてくれたのは、仁科先輩が守ってくれた、という真実だけ。
その後、高校時代の苦しさをバネにひとり東京へ出てがむしゃらに生きてきたが、結果この様だ。
しかしよく考えてみれば、もともと敵対していた仁科先輩と五十嵐の兄。
その喧嘩に嫉妬する女の浅はかさよ。
あの仁科先輩が殴り合いの最中に「女との約束があるから」と言って中断するはずがないことぐらい、わからなかったのか。
(ごめん、葉山くん、本当にごめんなさい、あたし・・・)
彼女は俺の大声におびえて、震える声を出した。
当時、このくらいの強さがあれば、俺の人生は変わっていたかもしれない。
ひとつ息を吸い込み、言った。
(・・・もう、いい。悪かった、大声出して)
俺はジャケットの中から煙草とライターを出した。未だに紙巻き煙草をやめられない。電子煙草どころか、世界は禁煙の流れなのに。
俺は五十嵐の顔を見ず尋ねた。
(五十嵐。あんたは俺と、本当に結婚したいの?)
(葉山くん・・・)
(解ってると思うけど、俺はその気はない)
(あ・・・あたしは・・・っ葉山くんのこと、前から・・・)
前から?
どの口が言ってるんだ。そんなそぶり、全くなかっただろうに。
ホテルを継ぐ可能性があるからって、急に好きになられても困る。
(無理しなくていいよ。この話は、無かったことに)
(葉山くん!)
俺はやはり女性に興味を持てない。