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「也仁さん、お電話です」
「え?」
終業直前、ホテルの事務所に直接かかってきた電話。フロントならまだしも、事務所の電話番号は、あまり知られていない。
「どなたですか」
「五十嵐さんという女性の方です」
「・・・わかりました」
五十嵐梨子だ。俺はいらつく気分が声と顔に出ないように注意しながら、保留ボタンを解除した。
「お電話代わりました。葉山です」
まわりには事務の人間が何人もいる。飽くまでもビジネスライクに答えた。
「五十嵐梨子です。お仕事中申し訳ありません」
「・・・ご用件をお伺いします」
「あの・・・今、ラソンさんの近くの喫茶店にいるんです。お仕事が終わったら、少しお話できませんか」
「・・・・・・」
事務員の手前、強い言葉は使えない。俺は深呼吸して、極力穏やかに言った。
「どういったお話でしょうか」
「私の気持ちをお伝えきれていないので・・・お時間は取らせませんので、お願いできませんか」
「・・・終業後、予定があるので、少しの時間でしたら」
「ありがとうございます!」
本当は予定など無かった。
どうしてこの時、会うことを了承してしまったのかは覚えていない。
彼女と会った後に起こる出来事を無意識的に知っていたのかもしれない。
五十嵐梨子が待っていたのは、ラソンブレの真裏にある喫茶店だった。
白いメルヘンな出窓が乙女チックな、男ひとりでは決して入れない店構えだ。
扉を押し開けると、一番奥の四人掛けの席に彼女は座っていた。
オフホワイトのカットソーと淡いグリーンのプリーツスカート。髪を片側に寄せ、顔を少し斜めに傾けておびえたような目で俺に会釈する。
前回、きつい言葉で畳みかけたというのもある。が、思い出してみれば、学生時代から若干卑屈な雰囲気があったかもしれない。
「お呼び立てして申し訳ありません」
この間はお互いタメ口だった。やりすぎたか。俺は椅子に座りながら、きつくなりすぎないように心がけて尋ねた。
「話って何?」
俺が口調を和らげたからか、少し安心したように五十嵐は言った。
「ちゃんと言ってなかったなと思って」
「・・・何を?」
「どうしてお見合い話を受けたのか、っていうこと」
想定外だった。五十嵐梨子は前回よりもしっかりした口調で言った。
注文したアメリカンコーヒーが運ばれてきて、ウエイトレスが席を離れてから彼女は話し始めた。
「気分を害さないで聞いて欲しいの。あたしたちが1年だったときのことなんだけど」
仁科先輩に助けられたのも、壁の落書きを消したのも、黒板に悪口を書かれたのも、あまり人と喋らなくなったのも、高校1年の時の話だ。
「あたしの友達が、仁科先輩の彼女だったって話したよね」
五十嵐梨子は意外な話を始めた。
彼女と彼女の友達は、同時に仁科先輩に恋をしたそうだ。
当時の仁科先輩はモテにモテていた。同学年はもちろん、二年にも一年にも彼と付き合いたいという女子生徒が山ほどいた。
仁科先輩の方は来る者を拒まなかったので、言い寄ってくる女子とはほとんど関係を持つ、と噂されていた。
特定の彼女はいなかったのではないかと思う。
五十嵐梨子とその友達は親友と呼べる間柄だった。
が、同時に同じ相手を好きになってしまい、当然のように関係がぎくしゃくし始めた。
そして、五十嵐よりも先に、その友人が仁科先輩に告白した。
「友達は告白って言ってたけど、多分・・・関係を持ったんだと思う。他にもそういう子がいたみたいだけど、友達は自分が彼女だって言い張ってた」
ありがちな話だ。女子に興味がない俺には全く縁がない案件だったが、いつの時代もモテる男というのはトラブルが絶えない。
「誕生日をすっぽかされたっていうのは話したよね」
「ああ」
「あの日、勝負を賭けてたんだと思う。仁科先輩が誕生日に一緒にいてくれたら、まわりの女子にも彼女だって認められるからって」
「・・・五十嵐は、仁科先輩を諦めたのか」
「あたしは・・・多分雰囲気にのまれてた部分もあったと思う。仁科先輩は本当にモテたしかっこいいとは思ってたけど、あたしなんかじゃ無理だと思ってた。それに、友達が約束すっぽかされたって聞いて、やっぱり仁科先輩は特定の彼女作る気ないんだなってわかった」
一呼吸置いて、あれ、葉山くんのためだったんだってね、と五十嵐は言った。
「・・・え・・・?」
言葉の意味がわからない。
俺のため?
「仁科先輩、葉山くんが兄のグループにやられてるって聞いて、ひとりで飛び込んで行ったって聞いた」
そんな。
だってあの時、「巻き込んじまって悪かったな」って。
通りがかったら、たまたま俺が殴られてて。
五十嵐の兄との間の確執に、俺は挟まれただけだと思っていたのに。
「あたしは・・・正直、友達が振られたのは当然だって思ってた。彼女、自由すぎる子だったし、上級生にも目をつけられてた。仁科先輩が彼女を選んだら・・・結構ショックだったかもしれない。葉山くんを助けようとしたって聞いて、逆に安心しちゃったっていうか・・・」
女同士の友情ってものは全く理解できない。
親友じゃないのか。
いや、そんなことはどうだっていい。
「仁科先輩はたまたま通りかかっただけで・・・偶然だよ」
「偶然じゃないよ。・・・仁科先輩、まっすぐ自分にむかって突進して来たって・・・後から兄に聞いたの」
何でそんなこと。
ありえない。
俺を最初から認識してた?そして本当に彼女ではなく、俺を選んだ?
「信じてもらえなくても仕方ないけど、仁科先輩が葉山くんを助けに行くのを優先させたっていうのも、あたしの友達が問いつめて、先輩本人から直接聞いたんだって」
「嘘・・・だ・・・」
俺はずっとあの人を追ってた。
体育祭も学祭も、校内ですれ違う時も、登下校の後ろ姿を見かける時も、俺の一方通行だとばかり思ってたのに。
直接話したのは、たった1回だけ。それだって数分で、多分覚えていないだろうと思ってた。
認識されていただけで信じられないのに。
本当に俺を優先してくれていたなんて。
それがどんな意味であっても、俺にとってそれは一生の宝物だ。
闇の高校時代を支えてくれた思い出が、グレードアップして今、俺の目の前にある。
五十嵐はそのあと、嫌がらせを受けても動じなかった俺をずっと見ていたという。
動じなかったわけではなかった。
仁科先輩以外の人間のことを考えないようにしていただけだ。
卒業したら東京に出ることを決めたのも、迫害されて自覚したセクシュアリティを忘れて生きていくと決めたから。
不思議なことだが、その、俺が目的に向かっている姿を見て五十嵐は、俺を好きになったと言った。俺が上京して一度は諦めたが、その後なぜか他の男性とは縁がなく、独身のまま10年が過ぎた。
だから俺が故郷に戻り、見合いの話が来たとき、彼女は一も二もなく受け入れたそうだ。
なのに、まさか俺にあんな口汚く罵られるとは思っていなかっただろう。
「葉山くんがあたしと結婚するつもりはないってことはわかった。誤解を説きたかったから呼び出したの。・・・聞いてくれてありがとう」
「五十嵐・・・」
「今でも、仁科先輩とは会ってる?」
「・・・ああ、時々うちの修理に来てくれる」
俺の気持ちを明らかにする必要もないし、明らかにすれば仁科先輩もおかしな目で見られてしまう。
五十嵐はそっか、と言って笑ったが、不意に心配そうにこう言った。
「弓とは?」
「・・・え?」
弓。
そこで、いきなり点と点が繋がって一本の線になった。
(弓がさ、梨子と仲いいんだわ)
「五十嵐のその、友達・・・って、仁科先輩と結婚した・・・山口弓?」
五十嵐はこくりとうなづいた。