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「也仁さん、仁科さんがいらしてましたよ」
「あ、はいっ、どうも・・・」
「・・・どうかしました?体調でも?」
「えっと・・・ちょっと、喉の調子が・・・」
「そうですか、お大事にしてくださいね」
マスクをしておいてよかった。休憩時間、控え室の端で携帯をいじっている俺に、次々と心配する声がかかる。
仕事の前日には匂いの強いものを食べるのを控えなければいけないほど注意が必要な職場で、まさか二日酔いとは言えない。ホテルマンの風上にも置けない。
そして。
今日はどこの修理も無いはずだが、仁科先輩が来ている。
(おはよう。二日酔い、大丈夫か?)
どうやら俺は酔った勢いで仁科先輩に電話したらしい。
そしてメールの返信もしていない。
一体何を話した?嫌な予感しかしないぞ。余計なことを口走っていないだろうな、俺。
ビビりまくっている俺は、ホテルのロビーに現れた仁科先輩を見つけた瞬間、思わず事務所に引っ込んでしまった。
どんな顔して会えばいいんだ。
腕時計を見ると、まもなく交代の時間。フロントに立ってしまえば、逃げようがない。冷静になるしかない。
業務が再開したが仁科先輩は現れず、小一時間は順調だった。
俺は少しずつ平静を取り戻しつつあった。
のに。
「也」
宿泊予約の電話を切った時だった。いきなり名前を呼ばれて固まった。
顔を上げるとあからさまに機嫌の悪そうな仁科先輩が立っていた。
ロビーには他に客も少なく、デスクには俺しかいなかった。
「あ・・・っ・・・」
間抜けな反応をしてしまった。先輩はカウンターに肘をつき、じろりと俺を見上げている。
これは・・・あまりよろしくない雰囲気だ。
「おう」
「お・・・お疲れさまですっ」
「・・・なんで避けんだよ」
「さ・・・避けてないですよ」
「あ?嘘つけ。気づかれてないとでも思ってんのか?心配してやってんだろが」
「す・・・すみません、あの・・・昨夜は・・・」
「今夜、7時に「冴」集合」
「えっ」
言い放って仁科先輩はホテルの自動ドアを出て行った。
昨晩、俺はどうやら先輩を怒らせることを言ったようだ。
「お・・・遅くなりましたっ」
仁科先輩の歌を聞いた日本酒の店「冴」。仕事を終えて急いで会いに行く気持ちは、いつものワクワクする感じではなかった。が、仁科先輩が待っている、というだけでも足は勝手に小走りになる。
「おう。・・・走ってきたのか?」
「はっ、はいっ、すみません、遅くなって」
「遅くねえだろ。お前、5分置きにメール寄越すから・・・そんな怒ってねえよ?」
てっきり仁科先輩が怒っていると思って、「今出ました」「今横断歩道です」「あと3分で着きます」とまめにメールを送った。それが功を奏したのか、仁科先輩の顔はホテルのフロントで会った時より幾分柔和になっていた。
今日の席はカウンターだった。
「まあ座れや。何飲む?」
「お・・・俺・・・今日、酒は・・・」
一瞬、仁科先輩の目がまんまるに見開かれた。そしてふっと笑って、言った。
「あー、そうだな、そうだよなぁ。じゃあまず食えよ」
「す・・・すみません」
仁科先輩の笑顔にほっとしたものの、まだ緊張は抜けなかった。俺はウーロン茶で先輩と乾杯し、つまみを頬張った。
この局面は、俺がまず話し始めるべきだと思う。内容はともあれ、深夜に酔っぱらって先輩に電話するなんて、30代の男のすることじゃない。
「あの、先輩っ」
「也」
同時に声を出して、目が合って、どちらも口を半開きにしたまま静止した。
俺の目に映った仁科先輩は、頬が紅潮し、瞳は少し潤んでいる。昔から俺はこの人に何とも言えない色気を感じていた。30を過ぎてさらにそれに拍車がかかって、再会した時、心臓が口から飛び出しそうになったのを今でも覚えている。
見とれてしまいそうになったが、今は違うと気を引き締めた。
「すみません、俺、この間、酔っぱらって電話・・・っ・・・」
「怒ってねえってば」
「いやでも、あんな時間にべろべろで、本当に失礼なことして・・・」
「・・・気にしてるのそこ?」
「・・・えっ」
「違くね?」
「・・・・・・」
俺が言葉に詰まると、先輩は焼き鳥の串を持ち上げると、切っ先を俺の顔に向けた。
「酔った勢いで電話くらい、普通にあんだろ。そうじゃなくて、今日お前俺を避けてたの、なんだったんだよ」
少なくとも30年の俺の人生の中では普通ではないのだが、とりあえず仁科先輩的にはそれほど問題ではないようだ。
とはいえなんだか知らないが、うっすらと気づかれていやしないか?
「避けて・・・いたのは・・・その、俺、何を・・・言いました?」
「やっぱり避けてたんじゃねえか」
「それはすみませんっ!・・・それで、あの、先輩に何か失礼なこと、言ってないですか?」
「失礼なことは・・・特になかったけどなあ」
「けどっ?」
俺は思わず先輩に詰め寄った。先輩が顔を引く。
自分から近づいておいて、うっかり距離が近すぎてまた心臓が飛び出しそうになる。
「ああ・・・お前、苦しそうだったよ」
「苦しそう・・・?」
「なんつーか、どうしたらいいのかわかんねえ、みたいな感じ」
その通りだ。もし夢に見たようなことを言ってしまっていたのなら、俺の必死に隠してきたことはほとんどバレている。
「あと、他になんか・・・言ってました・・・?」
「・・・・・・諦められない、とか」
最悪。
もう最悪。俺はカウンターに突っ伏した。
「也?」
「・・・すんません、飲んでいいすか」
「おい」
「・・・飲ませてくださいよぉ・・・」
まだ素面なのにもう酔っているような気分だ。ビールを頼んだ自分の声が思っているよりでかくて驚いた。
出されたジョッキの半分を、一気に喉に流し込む。
「也さあ」
「・・・・・・」
「お前が諦められないって言ってたの・・・何?」
「・・・先輩・・・?」
「俺が鈍いってどういうこと?」
「え・・・」
仁科先輩が潤んだ瞳で俺を見てる。
期待していいのか?ともう一人の俺が頭をもたげる。そんなことってある?しかしその都合のいい考えを即座に打ち消して、俺は作り笑顔で答えた。
「よ・・・酔った上でのことですから・・・あんまよく覚えてなくて・・・」
「・・・・・・そうか」
「すんません、俺、あんなに酒癖悪いとか思わなくて・・・」
「はは、まあ、飲んでも飲まれるなっていうからな・・・って、俺が言うことじゃねーか」
仁科先輩が笑い飛ばしたことでこの話題はここで止まった。そこからは姪っ子の桃音ちゃんの話や、日本酒の銘柄の話やらで、普通に盛り上がった。
俺は結局引き続き酒を飲んだが、昨晩とは打って変わって全く酔わなかった。
仁科先輩はいつもどおりだった。
(お前が諦められないって言ってたの・・・何?)
先輩はどうしてあんなことを、俺に聞いたのだろうか。