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「もしもし」
「・・・お休みのところすみません。五十嵐梨子です」
五十嵐梨子からの電話は、俺の休みの日の午後にかかってきた。
彼女と話をしてから一週間後、見合いはなかったことに、と五十嵐の父から親父に連絡があった。
女性から断る方がまだ形になるだろうと俺と五十嵐で決めて、彼女が父親に頼むということであの日は終わった。
理由を知らない母親は、しばらくの間俺を腫れ物を触るように扱った。俺は見合い話が流れたことに安堵していることがバレないよう、出来るだけ静かに過ごした。
「五十嵐・・・どうしたの?」
「葉山くん、何度も申し訳ないんだけど、今日、会えないかな」
「・・・何かあった?」
「ちょっと相談があって。あ、大丈夫、結婚のことじゃないから」
腹を割って話したあと、俺の中での彼女のイメージはすっかり変わった。
自分を好いてくれたことは意外な理由だったが、すっぱりと諦めてくれたことも不思議だし正直有り難かった。
だからと言うわけではないが、話を聞かなければ、という思いがよぎったのだ。
待ち合わせをしたのは「ブラン」というカフェバー。夕方から翌3時までやっている、この町の若者が一度はハマる店だった。
暗かった高校時代、俺はほとんど行ったことがなかった。一度だけ親友の仲村に連れて行って貰ったことがあったが、とにかく形見が狭かった記憶しかない。
「葉山くん」
腰を浮かせて五十嵐は俺に手を振った。
気負うことなく会えるようになった安心感がある。俺は彼女の向かい側に腰を下ろし、コーヒーを頼んだ。彼女の前にはミルクティーが置いてあった。
「たびたびごめんね」
「いや、大丈夫。・・・俺で相談にのれるのかな」
「うん。葉山くんにしか相談できないことで・・・」
俺だけに、っていうのは一体どういうことだろう。気楽に話せるようになったとはいえ、そこまでの間柄ではないというのに。
コーヒーが来るまでは例の見合いの件の後、それぞれの両親に言われたことなどを話した。
本来なら、こっぴどいやり方で見合いをぶちこわした俺は、ひどい男だと罵られてもいいはずなのに、彼女はまるで古くからの友達のように接してくれる。
相談を持ちかけられるなんて、全く想像もしなかった。
「それで、相談ってなんの?」
運ばれて来たコーヒーを飲みながら俺は尋ねた。
五十嵐は周りを見渡し、知り合いがいないことを確認すると、声のトーンを落として言った。
「弓・・・仁科弓のことなんだけど」
仁科弓。
俺の頭の中では、旧姓の「山口」が出てきてしまう。でも確かに、彼女は仁科先輩の妻なのだ。
それにしても、どうして彼女の話が。
「・・・どういうこと」
「葉山くん、仁科先輩と仲いいよね」
「仲いいっていうか、・・・うん」
「弓・・・奥さんの話、聞いたりする?」
「・・・いや、あまり」
俺が知っている裏の話は飽くまでも推測だし、仁科先輩からそれらしい様子も伺えるがこちらから突っつくのは無しだ。
五十嵐はテーブルの上で両手を組んで、それを見下ろして言った。
「最近、会ってなかったんだけど、先週電話が来て」
「うん」
「・・・妊娠したって」
そんな馬鹿な。
仁科先輩との間に、子供は望めないはず。
ということは、信じられないけどそういうことか。
吐き気がする。
「・・・それで?」
「うん。それが、普通におめでとうって言ったら泣き出しちゃって」
ビンゴだ。
あのラソンブレに一緒に来る男か。そこまで迂闊な女だったとは。
「多分・・・仁科先輩の子じゃないと思うの」
「・・・・・・」
「弓も30だし、これを逃したらもう産めない気がするって言ってて・・・」
「・・・女性に向かってごめん、言っていいかな」
「うん」
「俺は・・・・・・卑怯でわがままとしか思えない」
「・・・・・・あたしもそう思うよ、葉山くん」
俺たちは黙りこくった。
意外と五十嵐は強い顔をしていて、俺と意見が近いことが解った。
「もちろん子供に罪はないよ。でも、弓のやっていることは最低だと思う。仁科先輩に対しての裏切りでしかない」
「五十嵐は・・・なんて言ったんだ?」
「ずっと泣いてばっかりで最初は話にならなかったの。どうしよう、どうしよう、しか言わなくて、どうしたいの?って聞いたら、産みたいって」
仁科先輩を裏切り続けて、子供を授かった女。
俺は腸が煮えくり返りそうだった。救いは、目の前で話す五十嵐が冷静で、俺ほどではないにしろ若干怒りを感じているように見えたことだ。
「仁科先輩の子じゃないんでしょ、って言っても、そうだとは最後まで言わなかった。どうしても産みたいんだって一点張りで・・・」
「・・・・・・ありえないだろ」
自分の声が不穏すぎて驚いた。五十嵐の顔にも緊張が走る。
「ありえないよね。そんな都合のいいこと、許されないよってあたしも言った」
離婚もせずに他の男の子供を産みたいなんて、正気の沙汰じゃない。浅はかにも程がある。
「仁科先輩はこのこと・・・」
「わからない。多分・・・知らないんじゃないかな」
「・・・・・・本当に山口は産むつもりなのか」
自然に旧姓の「山口」が滑り出した。
五十嵐は口を一文字に食いしばり、さらに険しい顔をした。彼女が何も言おうとしないのが答えだろうと思った。
「俺は男だから」
それ以上言ってもいいものか逡巡した。が、やはり言うことにする。
「子供を宿すっていう神聖な感覚がわからない。だから間違っているかもしれないけど、これは俺の持論」
五十嵐は真剣な表情でうなづいた。
「堕ろすのは違うと思う。ただ、産むならけじめをつけるべきだろ」
「そうだよね・・・」
「仁科先輩と山口の間にどういう信頼関係があるかは知らない。もし・・・本当に仁科先輩の子じゃないのなら」
俺は言葉を切った。
仁科先輩の子じゃないことは分かりきっている。しかし五十嵐にその理由を伝えるわけにはいかない。
「失礼だろ・・・あまりにも・・・」
うまく言葉を選べなかった。
考え無し、最低、ビッチ、自分勝手・・・いろいろな言葉が頭を巡るが、「失礼」という言葉にしかならなかった。
山口弓を許せない。
夫婦間の暗黙の了解なんて他人の俺にとってはくそくらえだ。俺はただ純粋に、腹を立てていた。
「葉山くん、あたしね。本当は堕ろしたら?って言いたかったんだ」
「え?」
「弓は学生の頃から本当に自由で・・・・・・振り回されてばっかりなの。仁科先輩のことだって、好きなんだよね、って相談したらいつのまにか弓の方がすごい距離近くなってて・・・・・・まあ、うかうかしてたあたしも悪いんだけど。今回だって、1年近く連絡寄越さなかったのに、助けて、友達でしょって・・・都合良く利用されてる気がして、意地悪な気持ちになってた。仁科先輩とも、浮気相手とも幸せにならなきゃいいって・・・」
「五十嵐・・・」
「葉山くん。あたしね・・・・・・若い頃、中絶してるんだ」
「・・・・・・え・・・」
「会社の上司と・・・・・・優しくされて、酔った勢いで・・・」
五十嵐は下を向いた。涙の粒がぽとりとテーブルに落ちる。
俺は息をするのを忘れた。
「向こうは遊びだったから、妊娠したって伝えたら別れようって言われて・・・親にも言わずに、一人で病院に行った。相手に裏切られたっていうより、堕ろした子供に申し訳なくて・・・・・だから、弓の話聞いたとき、すごく悲しくて、腹が立って。同じ悲しみを味わえばいいって思っちゃった」
「・・・・・・ごめん・・・」
「あ、ううん、謝らないで、こっちが勝手に話したんだから」
涙を拭って、五十嵐は少し微笑んだ。俺はいたたまれず、視線を落とした。
「でもね、葉山くんと話して良かった・・・・・・間違えるところだった!どんな事情があっても、子供の命は守るべきだもん。責任を負うべきは、弓だと思う」
「・・・そうだな」
「明日、弓と会って言う。ちゃんと仁科先輩と向き合って、けじめつけろって。逃げるなって、言ってくる」
俺はすっかり冷めたコーヒーの表面を見つめた。写っているのは、困惑した男の顔。
妊娠のできない男の身体、女を愛せない男の心を持った俺は、五十嵐に何も言ってやれなかった。
ただ、思い浮かぶのは仁科先輩の傷ついた顔だけ。