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「やべえ、暗ぇ、なんも見えねえぞ」
「先輩、これっ」
「おっ、何、お前の携帯最新式?」
「先輩のにも普通に付いてますよ・・・あ、ほら、危ない!」
俺は携帯のLEDライトで仁科先輩の足下を照らした。夜の無人の高校なんて、もはや肝試しだ。じゃりじゃりと靴が音を立てる。
生徒用の入口は、在学当時よりも狭くなっていた。生徒の人数が減った、というのはなんとなく聞いていた。俺たちの頃は、管内でも一、二の生徒数を争うマンモス校だったのだが。
「校舎、こんな色だったけかな」
「塗り替えたんじゃないですか?10年以上経ってますし」
「そっか・・・・・・あ!」
仁科先輩は大きな声を上げて、ぽん、と手を叩いた。そしていきなり走り出した。
「えっ、先輩、ちょっとっ、えっ?」
「也仁!こっち!」
いきなりちゃんと名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
生徒入口も十分暗いのに、さらに真っ暗い方向に仁科先輩は走っていく。
「どこに行くんですかっ」
「いいとこ!」
は?
仁科先輩について、校舎の壁づたいに走った。よくこの暗闇であの速さで走れるものだと思う。さすが元ヤン、とよくわからない理由で関心した。
全速力で角を曲がった瞬間、俺は顔から先輩の背中に激突した。
「すみませ・・・」
鼻を押さえてライトを持ち上げると、仁科先輩がにんまり笑って振り向いていた。
そして高く腕を上げて、何かを指さした。
「也。ここ、覚えてるか」
忘れるはずがなかった。
校舎の西側の壁。
仁科先輩が俺を助けてくれた場所。この壁は下品な落書きで埋められた。
あれから10年、当然壁には何も描かれていない。グレーだった色もクリーム色に塗り替えられている。
「先輩・・・・・・」
「でかい壁だと思ってたけど、こうしてみるとそうでもねえなあ」
「そう・・・ですね・・・」
「俺らがでかくなったってことかな」
「先輩は・・・当時からでかかったじゃないすか」
「お前はひょろひょろだったよな」
「・・・今は少しはマシになってます」
「はは、だな」
仁科先輩は自分も携帯を取り出した。そしてなにやら操作して、LEDライトを探し出した。
壁を照らし、先輩はしばらく黙って見上げていた。
壁の近くには大きな樹が植わっていたが、俺はそこに樹があったことなど覚えていなかった。
この場所は大切な思い出と黒歴史を併せ持つ。それ以外の記憶は無いに等しい。
「也仁」
仁科先輩が、優しい声で俺を呼んだ。
「お前、あれまだ持ってんの」
「あ・・・れ?」
「・・・俺の・・・手帳?」
「えっ・・・」
「ははっ、もう、ねえか、あんなの」
「先輩っ・・・」
俺は気づいたら先輩に駆け寄り、彼の腕を掴んでいた。どうしてそんなことをしてしまったのか、覚えていない。
仁科先輩と目が合ったが、暗さが手伝って互いの表情ははっきりしない。助かった。
「持ってますっ・・・今も・・・」
「・・・マジで?へえ、すげえな」
顔が近い。
高校の時、見上げる形だった先輩とは今、目線の高さが同じになった。
東京にいるとき、がりがりの自分の身体が嫌いでジムに通った。厳密に言えば今も先輩の方が少し背が高いが、俺が胸を張りさえすればあまりわからない。
先輩の生徒手帳を拾ったのは、助けてもらう半年ほど前だった。
体育館裏で、雨と泥にまみれた誰かの手帳を見つけた。そのまま放置してしまおうと思ったのに、仁科先輩のものだとわかって俺は思わずそれを持ち帰った。
泥を落とし、乾かしてから、仁科先輩に会えるタイミングを待った。
一人でいることがあまりなかった先輩の様子を伺って1週間が経ち、諦めかけた時、一人で下校する先輩を見つけて決死の覚悟で声をかけたのだ。
あの時、まだ先輩は俺の名前を知らなかったはずだ。
「お前、やっぱりいい奴だよな」
「先輩っ!」
被せるように俺は叫んだ。掴んだ腕を離すのも忘れていた。
今がチャンスだと直感が言っている。
「ん?」
「あの・・・・・・何か、困ってること、とか、ないですか」
よりによって、そんな言葉しか出てこない。
「・・・・・・なに、急に」
先輩は不思議そうに首を傾げた。そりゃこのタイミングでこんなこと言われたら、普通はそうなる。
でもこれ以上核心には触れられない。妻が他の男の子を妊娠しているのを知っているのかなんて、口が裂けても言える訳がない。
「えと・・・あの、なんか・・・困っているように・・・見えて・・・」
「・・・俺が?」
そろそろ怒られるか。下手な作り笑いをして俺は答えた。
「気のせいならいいんです・・・でも・・・もし、なにか、俺で、先輩の役にたつことが・・・あったら・・・って・・・」
「也仁・・・」
ちゃんと名前を呼ばれる度に、心臓がぎゅんと締め付けられる。
仁科先輩は、ふわりと笑った。
そして言った。
「お前、よく俺のこと見てんなぁ。すげえわ」
「す・・・すみませっ・・・」
「じゃあさ」
仁科先輩は、俺が掴んだ方と反対側の腕で、俺の頭をぽん、と叩いた。
「・・・・・・慰めてもらうかな。也仁に」
手に持っていた携帯が落ちて、LEDライトの光が真上に向いた。
仁科先輩の茶色がかった瞳に見つめられた時、俺はこの人がすべてを知っているのだとわかってしまった。
俺は彼の肩を両手で掴み、足下から照らす馬鹿明るい光の中で、仁科先輩にキスをした。