メニュー
酔っぱらいと見えたのは、意外にもきっちりとスーツを着こなした紳士だった。嫌味なほど整えられた髪と艶のある革靴が、都会からやってきた感を醸し出している。
その品のいい出で立ちの男は、酔っているだけでなく、今にも血管が千切れそうに目をつり上げていて、仁科先輩の服を掴んで前後に激しく揺らしている。
仁科先輩はなぜか、大声で怒鳴り散らされても、冷めた瞳で相手の男を見つめているだけで反撃もしない。
「ちょ・・・っと、待って、待ってくださいっ!」
俺は思わず二人の間に飛び込んだ。
仁科先輩と相手の男は驚いて一度動きを止めた。が、すぐに部外者の乱入だと気づき、俺はその男に胸を押された。
「なんだ、君はっ、関係ない奴は引っ込んでいろ!」
「也仁?!」
「なんだか知りませんけど、暴力はやめてくださいっ!」
3人が好き勝手に叫んだ。
確かに俺は全く関係ないが、仁科先輩に危害を加える奴を目の前にして、黙っていることは出来なかった。
無理矢理二人を引き離し、俺はその酔っぱらった男の前に立ちはだかった。
「どけ!私はこの男と話をしてるんだ!!暴力など振るっていない!」
「だったらもう少し穏やかに出来ないんですか?!こんな往来で!」
「也仁、いいからっ」
「良くないですよ!」
「うるさい!!」
矛先が俺に向いた。男は怒り丸出しで俺の襟首を掴んだ。
間近で見る男の顔はひどく歪み怒りに満ちていたが、俺はなぜか、この男とどこかで会った気がした。思い出せる状況ではないのだが。
「君はこいつの何だ?舎弟かなにかか?図々しく割り込んで来やがってっ」
「俺はっ・・・」
口をついて出そうになった本心を飲み込んだ。他人から見た俺は、ただの後輩であって、それだけ。そういうあんたは誰なんだよ、と言いそうになったところで、締められていた襟元がふっと緩んだ。
急に解放されて身体が傾いた瞬間、男は仁科先輩に突き飛ばされ、仰向けにごろりと転倒した。
「せんぱ・・・・・」
肘の先で相手の男の胸を付いたらしい。男は苦しそうに咳き込んでいる。いつのまにかギャラリーも増えてきていた。
先輩は大股で近づき、倒れた男の胸ぐらを掴み引き上げ、無理矢理立ち上がらせた。
「黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって・・・・・・本来なら、俺に殴られても文句言えないのはあんたのほうじゃねえか」
仁科先輩がヤンキーモードに切り替わった。いきなりの形勢逆転に、男は顔をひきつらせた。声も出せず、息を吸い込んだまま先輩を見つめている。
「どう考えてもあんた、俺に意見出来る立場じゃねえよなあ・・・・・・店に迷惑がかかるから我慢してやってたの、気づかなかった?」
仁科先輩の拳が、ひゅっ、と音を立てて男の顔面に向かった。
鈍い音を覚悟して目を閉じたが、何も聞こえなかった。そっと目を開けると、先輩が男の顔ぎりぎりで拳を寸止めしていた。
男は顔面蒼白で口をぱくぱくさせている。
「・・・・・・そんなに俺に意見したけりゃ、素面で来いよ。いくらでも聞いてやっからさ」
先輩は握っていた拳を開いて、男の胸を軽く押した。男は切り倒される大木のように直立のまま後ろに倒れていった。
ギャラリーの中から、男の連れと見られる若い男が2人、慌てて駆け寄った。
呆然と立ち尽くす俺は、振り向いた仁科先輩と目が合った。
「平気か?悪ぃな、巻き込んじまって」
心臓が飛び出すかと思った。
高校時代の、あの時と一緒だった。俺が胸ぐらを掴まれるまで、先輩はまるで興味がなさそうに男を見ていた。
俺が窮地に立たされた瞬間、先輩は急変した。唯一違ったのは最終的に相手を殴らなかったこと。
これで勘違いするなと言う方が難しい。
少しずつギャラリーも遠ざかってゆき、相手の男が連れと一緒にどこかへ行ってしまう頃には、先輩と俺だけになった。
「先輩、大丈夫ですか」
先輩の着ていた黒いカットソーの襟は、引っ張られて型くずれしていた。それを片手で直しながら、先輩は笑った。
「殴られたわけじゃねえからな。それよりお前、いいタイミングで現れたなあ」
「近くの店で・・・友達と飲んでまして・・・」
「マジで?そりゃ悪いことしたな。戻らなくていいのか?」
「だ、大丈夫です。あの・・・さっきのは・・・」
仁科先輩は、相手の男が消えていった方向に目をやった。ほんの数秒、切ない視線を向けていたが、俺に向き直ると、静かに言った。
「どっかの大学教授らしい。・・・・・・弓と、本気でつきあってるとかなんとか言ってた」
「え・・・っ?!」
「・・・・・・俺より弓を愛してるんだと。・・・知らねえけど」
どこかで見たことがあると思ったのは気のせいではなかった。
あの男は「湯沢宏樹」だ。
仁科弓が旧姓の「山口弓」の名前で、ラソンブレで逢瀬を重ねる浮気相手。
子供の父親。
それでは、先輩と湯沢は、直接対決したということか。でもどうして?
「也。もう、戻れよ」
先輩は、悲しげに笑った。
はじめて先輩の口から、夫婦の間の問題を聞くことが出来た。が、明らかに先輩は傷ついていた。
俺より弓を愛してるんだと、と言った時、先輩はここではないどこかを見ていた。
それが浮気を隠して子供まで作った妻への思慕なのか。
まだ愛情が残っているのか?
そんなこと、そんなことって。
「先輩!」
俺は先輩の腕を掴んだ、そして走り出した。
「也?!」