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「おい、どこに行くんだよっ」
「わかりませんっ」
「はあっ?」
俺は仲村たちを置いて、とにかく先輩を引っ張って走った。行くあてもなく、ただこの人とふたりきりになりたくて走った。
商店街を抜け、川が見えるところまで走り続けた。この町の中心を流れる河川は海に繋がっている。川沿いを30分も歩けば海に出るが、そこまで辿り着ける余力はなかった。
河岸に停泊している古い漁船の側で、俺は止まった。
あたりにはベンチもなく、塗装の剥げたチェーンが川への転落防止に張ってあるだけだ。
街灯がひとつ、少し離れたところに立っている。
俺は仁科先輩の手を離した。
はあ、はあ、と荒い息を吐き、先輩は俺を見つめていた。
「なん、なんだよ・・・・・・お前・・・」
「・・・・・・教えて、ください」
息はまだ整わない。言葉が途切れる。
「何をだよ」
「先輩の・・・・・・本心を」
聞いてしまったら、俺は今度こそ諦めざるを得なくなる。せっかく一度、気持ちが通じ合ったのに、何が悲しくて自ら壊そうとしているのか。
やっぱり弓を愛している、あなたはそう、言うんだろう?
「本心?」
「・・・知って・・・いたんですか。浮気のこと」
「也・・・」
「黙っていてすみません。・・・・・・ホテルの宿泊客名簿に、旧姓の名字で奥さんの名前がありました」
「旧・・・姓・・・・・・」
「俺が知っているのはそれだけです。あとは、何となく・・・勘というか・・・」
「・・・そうか、それで、この間、何か困ったことって・・・」
「・・・・・・すみません」
「はは・・・は・・・」
仁科先輩は乾いた笑い声を出した。直視出来なかった。
俺はいわば、困っていることを知っていて家に誘った、確信犯だ。なじられても文句は言えない。
しかし、先輩は俺を責めることはしなかった。
「知ってたよ。・・・・・・もう、1年になる」
「いちねん・・・っ?!」
「ああ・・・多分そのくらいだ」
やっぱり知っていた。それも、1年も。俺と再会した頃にはもうわかっていたということだ。
結婚して3年しか経っていないのに。
知りながら黙って結婚生活を続けていたなんて。
「それで・・・平気なわけじゃありませんよね」
「・・・そりゃあな」
「これからも、黙認し続けるつもりですか」
仁科先輩は答えなかった。お前に関係ないだろ、という返答を想像したが、先輩は夜の川を見下ろしてこう答えた。
「・・・・・・自業自得だからな」
自業自得。
それは、ずいぶん前に仁科先輩の口から聞いた言葉。
あの時も、言葉の意味はわからなかった。
「どういうことですか」
「・・・・・・・」
仁科先輩は答えなかった。
「・・・先輩」
もう、あとには引けない。どうしても言いたい。
先輩は感情の抜け落ちた顔で俺を見た。
高校時代の強くて男気のある先輩に戻って欲しかった。俺は言った。
「先輩の隣に・・・・・・いさせてもらえませんか」
「な・・・りひと・・・」
川の流れる水音だけが聞こえる。いつもの俺なら自分心臓の音でかき消されてしまっただろう。
今日は、それよりも伝えたい意志の方が勝った。
「あなたが傷つくのを、見ていたくありません」
先輩は絶句したままだ。
「どうして先輩がこの状況を黙認してるのかは、俺には分かりません。夫婦間の問題を俺が解決できるわけでもありません。でも、わざわざ傷つくことを選ぶなんて、先輩じゃない・・・先輩らしくないです」
先輩は黙って川を見ている。潮風で髪が揺れて、白い額が露わになる。
眉根を寄せて、口を一文字に結んだ先輩の横顔からは、俺が立ち入ることの出来ない部分があることが見て取れた。
仁科先輩は言った。
「俺らしくねえか。・・・・・・俺も、そう思うわ。だけどな、也」
先輩は身体ごと俺の方を向いた。風で顔にかかる前髪をかきあげて、先輩は言った。
「てめえで蒔いた種は、てめえで刈り取らなきゃだろ?俺と弓との結婚は、そういう約束の元に成り立ってんだよ」
「約束・・・?」
「あいつを先に裏切ったのは・・・・・・俺の方なんだよ」
言葉の音だけが入ってきて、意味を理解することが出来なかった。
ごめんな、也仁、と言って先輩は、俺の頭を自分の胸に引き寄せた。
髪を撫でながら、先輩は何回も、ごめん、と言った。
先輩の胸から、汗と混じった煙草の匂いがした。
ごめん、の意味を考えたくなかった。
俺たちは絶対に、お互いを必要としてる。
どちらかの一方通行なんかじゃない。
それなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。