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仁科先輩の本心を聞いてから、俺は自分から彼に連絡を取るのを控えた。
あの話では、今の俺に出来ることはない。
「先に裏切ったのは俺の方」。
単純に解釈するなら、山口弓よりも先に先輩が誰かと不倫した、ということになる。
その相手との関係が、今でも続いているのか、過去のことなのかは、聞くことが出来なかった。
もし過去に終わりを告げている関係なのだとしたら、その罪悪感から、今でも妻の不倫に目をつぶっているということか。
でも山口弓は妊娠している。
それはやはりルール違反じゃないか、と思うが、そもそもルールなんてあるのだろうか。
夫が子供を望めない身体だからって、過去の不倫の代償が、他の男との子供の妊娠の容認なんて、そんな話聞いたことがない。
五十嵐梨子の話では、山口弓は妊娠を知って戸惑い、泣いていたという。
そして仁科先輩に絡んだ湯沢宏樹は、まるで「お前が彼女を愛してやらないからだ」という口振り。
そして先輩が言う、「自業自得」がうまく繋がらない。
先輩の裏切りとは、いったい何を指しているのだろう。
俺はいつも持ち歩いている鞄から、10年以上経ってさらに年季が入った仁科先輩の生徒手帳を取り出した。
雨に濡れて、泥がついて、乾かしたら紙が波打って広がってしまった、不格好な手帳。当時の顔写真も三分の一が破れてしまっている。
まだ名前も認識されていなかった時期の出来事なのに、先輩は俺が拾ったことを覚えていた。
キスしても拒まれなかった。
お互い好きでいいんじゃないか、と先輩の口から聞いた。
それなのに、今俺の中には不安しかない。
先輩の告白を聞いて最も衝撃をうけたのは、山口弓との契約結婚でもなく、かつて不倫したことがその状況を作り出したことでもなく、
今、先輩は誰のことも必要としていないのではないか、ということだった。
自分の責任は自分でかたをつける、と決めているように見えた。
部外者である上に、必要ない、と言い渡された気がした。
「なんで好きになっちゃったかな・・・・・・・」
ベッドに仰向けになって、俺はつぶやいた。
一人になれば先輩のことしか考えられない。
そんなとき浮上した、もうひとつのやっかいな問題。
(なんで今更・・・もうそれは断ったはずだろ)
(違うわよ。よく聞きなさい)
朝一で社長室に呼ばれた。
予想もしない言葉を投げかけられて、俺は戸惑った。
母親は、好きなひとはいないのか、と聞いてきた。俺はてっきり、また見合いの話でも持ってきたと思って眉を吊り上げた。
(見合いなんてもう言わないわよ。付き合っている人はいないのか、って言ってるの)
(なんでそんなこと言わないといけないんだよ)
(・・・・・・お父さん、体調悪いのよ)
急に話の方向が変わった。俺は二の句が告げなくなった。
(もう無理に見合いしろとは言わないわ。ただ、少しでもお父さんを安心させてあげたいと思ってるだけよ。・・・無理強いさせて悪かったと思ってるし)
(体調悪いって・・・どんな・・・)
(肺癌。・・・・・・あと、1年ですって)
(え・・・・・・っ・・・)
母親は唇を噛みしめていた。気丈な母の本心が垣間見えた瞬間だった。
父と俺との関係性は、良いとも悪いとも言えない。五十嵐との見合いの件で久しぶりに話したときは、体調が悪いなんて様子は全く見せなかった。
見合いを勧められた背景には、実はこんな理由が隠れていたのだ。
(だから・・・もし、そういう相手がいるんなら、と、思ったのよ)
(相手・・・)
(急いで、とは言わないけど。まあ、考えておいて)
ゲイである、ということに付随する、避けて通れない問題。
そこに父親の病気が重なって、俺の性的指向のもつ不自由さがさらに強調される。
仁科先輩は、俺のような問題にはひっかからなかったのかもしれない。
女性と結婚生活を営める先輩は、俺とは違う。
でも、それならどうして俺を受け入れてくれた?
考えても結論は出なかった。
「いらっしゃいませ」
いつものようにフロントに立った月曜日。
チェックインに現れた客の顔を見て、俺は息を詰まらせた。
湯沢宏樹。
仁科先輩に絡んでいた時とはずいぶん雰囲気が違った。酒が入っていない湯沢は、実に品の良い、洗練された空気を纏っていた。
俺は緊張していることを悟られないように笑顔を作った。あの晩、急に割り込んできた奴だと気づかれるかと思ったが、湯沢は俺を見ても反応を示さなかった。
制服を着た俺と、止めに入った俺が繋がらなかったのか、それとも飲み過ぎて覚えていないのか、湯沢は淡々とチェックインを済ませ、俺に会釈までした上でエレベーターに消えていった。
知らず、手に汗をかいていた。
修羅場を思い出す。ひどく酔った湯沢は仁科先輩にむかって呂律の回らない口で、「彼女は寂しいんだ」と言っていた。
宿泊者名簿をパソコンに呼び出してみる。
今日は、山口弓の名前はなかった。
子供は、どうなるのだろうか。
何ヶ月なのかは知らないが、順調に育っていればいるほど夫婦の関係性に深い溝が刻まれる。
そしてどうすることも出来ない俺と、仁科先輩との関係。
父親の病気と、母親の気持ち。
俺は、名簿のページを閉じて通常業務に戻った。
港町は短い秋を通り過ぎて、冬になろうとしていた。
海に繋がる川は凍てつき、道に雪が積もると、行き交う車のタイヤで深い深い轍が出来る。ダウンコートとブーツ、マフラーや帽子を身につけて人々は家を出る。雪の積もった白い道を、ぎゅっ、ぎゅっと音をたてながら、会社や学校へ向かう。
東京では考えられないことだが、ボイラーがほとんどの住宅に設置されていて、それがなければ厳しい冬を越えられない。
家庭用の除雪機と、通称「ママさんダンプ」と呼ばれる除雪用器具で毎日のように雪かきを強いられるこの地方の住人は、実にたくましい。
ホテルラソンブレも例外なく、雪が積もれば除雪作業に追われる。
初雪が降った12月半ば、足首が埋まる程度に積もった入口前を除雪するため、早朝からの出勤となった。
手袋をしていても手がかじかむ。
ここから長い冬が始まる。本州の桜が散り出す頃に、北海道の桜は開き始める。
初雪はサラサラしていて、さほど水分を含まないので小振りのスコップで事足りる。
男ばかり4、5人で雪かきをすれば、ものの15分でエントランスはすっかりきれいになった。
これから雪かきの日々が始まるなあ、と軽口をたたきながらホテルに入ったところで、後から入ってきた2人の同僚の噂話が耳に飛び込んで来た。
「マジで?」
「ああ、うちのが高校の同級生でさ。けっこう修羅場だったらしいよ」
「だろうな。だってデキちゃったんだろ?そりゃそうなるよなあ」
「なんか・・・こんなこと言ったらなんだけどさ。不憫だよな、仁科さん」
「俺もそう思うわ」
仁科さん、という単語に、全身の血液が沸騰しそうになった。
会話の内容からして、山口弓が妊娠したことが漏れている。時期を考えれば、そろそろ大きくなった腹が目立ち始める頃だ。
が、事情を知らなければ、不義の子だとはわからないはずだ。
不憫だ、と思われているのは、仁科先輩だった。
俺は控え室に戻り、携帯を取り出した。