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12月中旬。
父親が倒れた。出勤中だった俺は制服のまま病院に急いだ。
テレビでよく見るような酸素吸入器と、腕には点滴が繋がれ、青白い顔をして父親は眠っていた。
病巣の転移がある父は、手術が出来ない。最近は免疫療法などを試していた。
母親が、背中を丸めて傍らの椅子に座っている。
「也仁・・・」
母親が振り向いた。彼女も病人のような顔をしている。
「母さん」
「ここに座って」
母親の横に椅子を出して、俺は腰をおろした。
しばらくは黙って父の顔をふたりで見ていた。4人部屋のベッドは父の他には1人だけ。カーテンが閉まっているので、挨拶も出来なかった。
緊急だったからか、ベッド横のチェストにはまだ何も入っていない。頭の上に「葉山幸造様」と手書きの名札が貼ってある。印刷すらまだ間に合っていないようだ。
「急に悪化したみたい」
母は父の顔を見下ろして言った。それは独り言のように聞こえた。
「買い物から戻ってきたら、部屋で倒れてたの。喀血がひどくて。・・・・・・もうだめかと思ったわ」
「・・・・・・父さんはしぶといから」
「そうね。こんなことぐらいじゃ・・・死なないって、いつも、言って・・・」
母は声を詰まらせた。涙が膝にぽとりと落ちた。
父親は肺癌がわかったときも、心配する母を笑い飛ばしたという。昔気質で頑固な父は、病気になっても何も変わらなかった。
俺はしばらく母の背中をさすっていた。
遅くに出来た子供である俺は、父親参観日で友達に「おじいちゃんが来た」と言われるのが嫌だった。年の離れた妻と一緒に歩くと、娘さんですか、と言われることもあったという。
曲がったことが嫌いで、自分にも他人にも厳しく、弱音を吐くことを息子にも許さなかった。高校での例の事件があったときも、殴られたとは言えず、階段を踏み外したと嘘をついた。
東京に出て就職すると言った時は珍しく手放しで喜んだ。俺が自発的に行動を起こすことがほとんどなかったので、やっとやる気を出したと思ったらしい。
帰ってきてから、ゆっくり話す機会はなかった。
一時間後、母親は病院に残り、俺は仕事に戻ることにした。
「也仁?」
病院のロビーで、誰かが俺を呼んだ。
待合室の椅子が並ぶスペースに、工具箱を持った仁科先輩が立っていた。
「仁科先輩・・・」
どうして、と聞きそうになって思い直した。作業着を着ているのだから、仕事に決まっている。
先輩に近づきながら、前回会ったときのことが不意に思い出されて、心臓が跳ねる。
「・・・もしかして、おやじさんか?」
「はい・・・緊急入院で。今は少し落ち着いて、眠ってます」
「そうか・・・」
「先輩は、点検ですか」
「ああ、今終わったとこ。お前は、ついていなくていいのか」
「今日は母親がいるので・・・仕事に戻ります」
この病院は町外れにあり、俺は母親の連絡を受けてタクシーで飛んできた。ラソンブレの制服でバスに乗るわけにもいかないので、帰りもタクシーを使わなければならない。
「也、送ってやるよ」
「え、いや、大丈夫です、タクシーで」
「そんな青い顔でタクシー乗ったら、病院に連れ戻されるぞ」
「でも」
「いいから」
仁科先輩は俺の返事を待たずに歩き出した。
わかっている。心配してくれているのだ。数秒悩んで、駆け足で先輩の後を追った。
「仁科配管」の名前が入ったワンボックスカーの助手席に俺は乗せてもらうことになった。
車の中は、先輩の整髪料と体臭が混じった匂いがする。
「すみません・・・助かります」
「おう。じゃ、行くぞ」
エンジンがかかったのと同時に、カーステレオから爆音で洋楽が鳴り出して飛び上がった。
「あー、悪ぃ悪ぃ、ははは」
慌ててボリュームを下げて仁科先輩は笑った。とっさに耳を押さえて固まっていた俺と目が合って、ふたりでさらに爆笑した。
社用車で爆音とは、元ヤンの仁科先輩らしい。落ちていた気分が少し上向いた。
「先輩」
「ん?」
「先輩のお父さんは、どんな方なんですか」
「んー・・・、普通だよ。ただの酒好きのおっさん。あ、でもな」
「はい」
「若い頃、めっちゃヤンキーだったらしい」
俺は吹き出した。蛙の子は蛙。そういえば、俺も父親によく似ているらしい。俺は生真面目、先輩はヤンキーのDNA。
「ウケるよな。高校の頃に金髪にした時、黒髪より似合うっつって。これっぽっちも怒られなかったな」
「面白いですね」
「まあ、楽だったな、いろいろ。喧嘩して帰ったって、今日は何人ぶちのめしてきたかって聞かれるくらいで」
「だから仁科先輩、こうなったんですね」
「こうってなんだよ」
落ち込んでいたのを忘れるぐらい、車の中は楽しかった。仁科先輩はお父さんの武勇伝を次々と披露してくれて、俺は笑いっぱなしでラソンブレに着いた。
「ありがとうございました。・・・・・・楽しかったです」
「そっか。あ、也」
シートベルトを外しかけた時、仁科先輩が俺を手招きした。運転席を見た俺の頭を、先輩の腕がぎゅっと包み込んだ。胸に顔が埋まる。
「え、あ、あのっ」
「・・・無理すんなよ」
「先輩・・・」
「大丈夫だ。也のおやじさん、強いから」
「・・・ありが・・・・・・ざいます」
きちんと声が出なかった。
先輩の気遣いと、身体の香りに包まれて、体中の緊張がほぐれて行くのがわかった。
涙が出た。
ワンボックスカーが駐車場を出て、角を曲がり見えなくなるまで、俺はその後ろ姿を見送った。