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「仁科先輩・・・」
「うん?」
「さっき、何か、ありました?」
「さっき?」
「整骨院の話してた時・・・変じゃありませんでした?」
「ああ、ちょっと考え事してただけ」
「本当ですか」
「ほんとほんと」
運転している仁科先輩は、まったくもっていつも通りだった。さっきのは見間違いだったんじゃないかと思うほど、上機嫌にアクセルを踏み込む。
これから行こうとしている森岡整骨院は、この町の住民が一度はお世話になる、と言われ親しまれていて、今の先生は二代目だという。
俺は学生時代あまり活発ではなかったのでお世話になった記憶がないが、話には聞いていたような気がする。
先輩の様子は心配だが、正直送ってもらって助かった。座っているだけでも振動でなかなかに痛い。気遣ってくれているのか、いつもよりブレーキの踏み込みがソフトだった。
ラソンブレから15分で、森岡整骨院に到着した。
ドアを開けて、無事な足を地面に下ろした。そっと降りようとしたところ、運転席から仁科先輩の声が飛んだ。
「待て待て、そっちいくから」
俺の方まで回り込んできた先輩は、俺の腕を取って肩にかけた。
「ちゃんと寄りかかれよ」
「は、はい」
「よいしょっ」
先輩は器用に、俺を支えながら車のドアを閉めた。
「すみませーん」
整骨院の受付には誰もいなかった。「少しお待ちください」と書かれた、今時珍しい木の札がかかっていた。先輩が大きな声を出すと、奥からぱたぱたと足音が聞こえて、女性がひとり出てきた。
「はいはい・・・あらあ、由悠季ちゃんじゃないの!」
「すんません、今日はこいつ、お願いします」
俺はなんとなく、黙って会釈した。ピンクのハイネックの白衣を着た50代くらいの女性は、院長先生の奥さんのようだった。
「どうしたの、足?」
俺は右足を少しだけ持ち上げて、答えた。
「多分、捻挫じゃないかと思うんですけど・・・」
「じゃあこっちにどうぞ。あ、そうだ由悠季ちゃん、この間の作業服、置いていったでしょ」
俺を支えてくれている先輩の身体が、わずかに強ばるのがわかった。施術室に向かってゆっくり進みながら、そうでした、すんませんでした、と先輩は奥さんに謝った。
建て付けのあまりよくなさそうな磨り硝子の引き戸。想像通り、がらがら、と大きな音がした。
施術室には回る足のついた椅子に深く腰掛けた、やはり50代半ばくらいに見える男の先生が待っていた。
「捻挫だって?」
「あ、はい、氷で滑った時に」
「腫れは?」
「それほどても、ないです」
先輩に支えられながら、ベッドに座った。右足だけを乗せて、スラックスの下に隠していた湿布をはがした。
どれ、と言って先生は俺の足首を触診した。先生の大きな手はひんやりとして気持ちよく、俺はその手が患部を確かめるのを興味深く見つめていた。
「よく冷やした?」
「コールドスプレーで」
「今度から氷水にするといい。冬はきついけどね」
「わかりました・・・」
「少し炎症があるから、もう少しアイシングが必要だ。そのあと、周りの筋肉を少しマッサージしておこう。膝なんかにも負担がかかっているだろうから」
膝、と言われて、それまで何ともなかったのに、急に違和感を感じた。おまけに腰も重苦しい。
とりあえず下半身だけ施術着に着替えて、アイシングをすることになった。
森岡先生の言う通り、冬の氷水はなかなかどうして辛かった。
ふと気がつくと、連れてきてくれた仁科先輩の姿がなかった。
帰ったのかな、と思って、少しだけ寂しくなった。
膝の周りもマッサージしてもらい、高周波治療器とかいうのも使って、ひととおりの治療は終わった。
カーテンを締めて制服のスラックスに着替えていると、森岡先生が声をかけてきた。
「葉山さん、由悠季くんとは友達?」
「あ、高校時代の先輩です」
「そうか。今日は連れてきてもらったのかい?」
「はい、たまたま仕事でうちにいらしてたので」
「うち?」
「あ、ええと・・・ホテルラソンブレです」
「・・・・・・ああ、どこかで見たことのある制服だと思ったら、ラソンさんか」
オーナーの息子であるということには、気づいていないようだった。その方が何かとありがたいので、俺は黙っていた。
カーテンを開けて、先生に会釈した。
「ありがとうございました」
「炎症が完全に収まったら、またおいで」
「はい」
テーピングで固定された足は、幾分歩きやすかった。体重をかけないように注意深く歩き、引き戸を開けると、廊下に仁科先輩が立っていた。
「先輩・・・待っててくださったんですか」
「その足で歩いて帰れねえだろ」
「すみません・・・あっ」
引き戸のへりに軽く足が当たり、ふらついた。
目にも止まらぬ早さで先輩は俺に駆け寄り、よろけた俺を見事にキャッチした。
「ほら、言わんこっちゃねえ」
「・・・はは」
助け起こされ、また肩を借りた。二人三脚よろしく歩きだそうとしたとき、ふと先輩が施術室の方を見やった。
森岡先生が立っていた。
先生は、なぜか仄暗い瞳で俺たちの方を凝視していた。
「・・・気をつけて」
森岡先生の声には、抑揚が無かった。
はい、と俺は答えたが、先輩は黙っていた。支えられて歩きながら、今日、森岡先生と仁科先輩は一言も会話を交わしていないことに気づいた。
受付で支払いをすませ、仁科先輩の車に乗り込んだ。
と。
「由悠季ちゃん!また作業着忘れてる!」
奥さんが大きな声で、運転席に片足をかけた仁科先輩を引き留めた。
「あ、やべ、也、ちょっと待ってて」
「はい」
仁科先輩はエンジンキーを回し、ばたんと勢いよくドアを閉めて、駆け足で整骨院の建物に戻っていった。
俺は車内で小さな音量でかかっている洋楽を聞きながら、前崎支配人に報告のメールをした。
メールの送信が終わり、洋楽が2曲終わっても、先輩は整骨院から出て来なかった。