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「ごめん、待たせた!」
戻ってきた仁科先輩は手に作業着を持っていた。そういえばさっき、森岡先生の奥さんが作業着を忘れてる、と言っていた。前回の忘れ物だろうか。でもどうして上着だけ?
「悪い悪い、前回修理したエアコンがまだ調子悪いって言われて、チェックしてた」
早口で説明しながら仁科先輩は運転席に乗り込んだ。
「ごめんな、行こう」
「もういいんですか?俺は急がないので・・・」
「いいんだよ。・・・・・・全部、終わったから」
仁科先輩はやけに強い口調で言った。アクセルを踏み込み、車はぐん、とスピードを上げた。
「先輩、ありがとうございました」
「おう。お安いご用だ」
「今日の点検、よかったんすか」
「今頃八嶋がやってるよ」
「ラソンブレはいつも先輩が直接やってくれてましたもんね」
「・・・・・・まあ、そうだな」
会話が途切れた。
俺と先輩は、言葉にしづらい関係だ。先輩は別居を始め、今でも俺たちはよく食事や飲みに行く。
今日みたいに仕事を代わってもらってまで、俺を助けてくれたりもする。
父親の病状はとりあえず落ち着いているが、頭の片隅に「結婚して安心ささせてやってほしい」という母親の言葉がこびりついている。
出来るならこのまま誰とも結婚せず、いつかこの人の隣で生活を共に出来たら、と何度も考えた。
だけど先輩はまだ正式に離婚が決まったわけではない。
俺も父親のことがある。
何も解決していないまま、時間だけが過ぎてゆく。
「也、どうした?まだ痛むか」
「あ、いえ、大丈夫です」
「このあともフロント立つのか」
「いえ、前崎支配人が今日はもういいって言ってくださって。着替えに戻って、それから帰ります」
「そうか、良かったな」
「先輩はどうするんですか」
「とりあえず会社に戻るかな。もう点検も終わってるだろうし」
「そうですか」
また会話が切れる。
あと7、8分でラソンブレに着く。着けば俺は前崎支配人に怪我の状況を説明して、着替えて家に帰る。
先輩は会社に戻って、夕方まで仕事。
あたりまえの日常に戻るだけ。
「先輩」
「・・・・・・うん?」
「俺・・・・・・」
続く言葉を見つけられなかった。
赤信号で車が停まり、仁科先輩が俺を見た。俺が何を言いたいのか、先輩は気づいているんじゃないか、と思った。
「先輩、俺・・・・・・」
「也」
ほとんど同時に、先輩も俺を呼んだ。そして、いつになく静かな口調で言った。
「多分、だけど。春には離婚が成立すると思う」
「春・・・・・・」
「そうしたら・・・・・・」
先輩も、言いよどんだ。
続く言葉を口に出すには、慎重にならざるを得ない。とても勇気のいる、ともすると諸刃の剣にもなる、決定的な言葉。
先輩は、俺から視線を外し、フロントガラスを見つめふわりと笑った。
「一緒に・・・・・・なりてえな・・・・・・」
信号が青に変わった。
先輩はアクセルを踏み込み、車はゆっくりと前進を始めた。
俺がうじうじしている間に、いつも先輩はすごいことを先に言う。
どうしてこんなに強くて、優しいのだろう。
日常に辛いことがあっても顔に出さない。いつでも見守っていてくれる。そして、俺なんかをさらりと受け入れてくれる。
俺は携帯を取り出した。
「・・・・・・あ、もしもし、葉山です。はい、あの、着替えに戻る予定だったんですけど、やっぱり直帰させてもらいたいんですが・・・はい、前崎支配人には先ほどメールしたので、ええ・・・・・・あ、はい、そうです。・・・・・すみません、よろしくお願いします」
通話を切るのとほぼ同時に、先輩が驚いた声を出した。
「也仁・・・・・・?」
俺はうつむいた。顔が赤いのはバレているだろう。
これが答えだと、伝わっていたらいい。
ふっ、と笑って先輩はいきなりハンドルを切った。ぎゅうん、と車が回転して反対方向に向いた。
そして路肩につけて、先輩は自分も携帯を取り出した。
「・・・・・・あー、もしもし、仁科です。八嶋さ、悪いんだけど俺直帰するから。会社の方、戸締まり頼むわ。・・・え?あ、井上さんは明日俺が連絡する。うん・・・うん、明日休み、取ってくれていいよ。うん、悪いね、それじゃよろしくお願いしまーす」
電話を切った先輩は俺の方を見て、ぺろりと舌を出した。
俺たちが乗った車はラソンブレを離れて、海沿いに向かって走り出した。