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「寒っ」
夏は海水浴場として使われるが、2月に入れば流氷が接岸し真っ白な陸地と化すオホーツク海。
春まで、船舶の航行はもちろん、氷の下の水を見ることも出来ない。
神秘的な光景を見るため、多くの観光客が真冬のこの町を訪れる。
12月の今は、まだ青い海面も、波の音も聞こえる。しかし、とにかく寒い。
1年を通していつも薄着な仁科先輩は、肩をすくめて海を見ている。昔からヤンキーが厚着を嫌うのは何故だろう。俺は自分のマフラーを外して、仁科先輩の背中からぐるりと包みこんだ。
振り返った先輩と目があった。
マフラーを口実に、後ろから抱きしめた。
もう少し俺に背があって、体格が良かったら様になったのに。
「お前が風邪引くぞ。怪我人のくせに」
「怪我と寒さは関係ないんで」
「そりゃそうだけどよ」
「・・・・・・先輩」
俺は先輩の身体にぴったりと寄り添って、彼に聞こえるだけのボリュームで話した。そんなことしたこともないので、少し照れ臭い。
「言わなきゃいけないことがあります」
先輩は黙っていた。俺は抱きしめる腕に力を入れて、身体と身体の隙間を無くして言った。
「父親が、持ってもあと1年だと言われました。肺癌で、もう手術も出来ない状態です」
波音が語尾を消す。先輩は前を向いたままだ。表情を盗み見る事も出来たが、俺は先輩の足下を見たまま続けた。
「母親に、言われました。誰かいいひとがいるのなら、結婚して安心させてやってくれって・・・・・・」
先輩の身体が小さく反応を示して、俺の腕に羽交い締めにされたままで、顔だけ振り向いた。
後ろから軽いキスをした。目を細めて先輩は俺の顔を見ていた。
「俺も・・・・・先輩と一緒になりたいです」
「也仁」
身体に回した俺の腕を、先輩が掴んだ。
冷たい潮風が海から吹き付けて、いっそう身体が縮こまる。
先輩が言った。
「俺とじゃ、おやじさんを安心させてやれねえだろ」
そう言うだろうと思っていた。自分の幸せよりも、他人を優先する先輩はこうやって生きてきたんだろう。
じゃあ、いつ、あなたは幸せになるんですか。
「先輩は・・・俺を、どう思っているんですか」
「也仁・・・」
「さっき、車の中で言ってくれたこと、俺は死ぬほど嬉しかったんです」
マフラーの端が風でたなびく。俺はさらに腕に力を込めた。
「父親を安心させることと、俺が本当に大切なひとと一緒になることは、俺にとっては一直線上でつながってます。俺が先輩以外のひとと一緒になったって、父親を安心させることには絶対にならない」
「・・・・・・じゃあ、どう、説明すんだよ」
「説明なんかしません。ありのままを伝えます」
「也仁、お前・・・」
「俺はあなたと幸せになりたいんだ!」
ふたりの足下の雪が、ぎゅっと音を立てる。俺は先輩の肩に顔を寄せた。
「駄目なんですか・・・・・・俺たちふたりで幸せになりたいと望むのは・・・」
故郷に帰ってきて、再会した瞬間からそれは始まっていた。先輩の笑顔と変わらない気さくさに、俺はあっという間に引き込まれていった。
諦めたはずの初恋。
先輩が卒業して、会うことも出来なくなって、それでも気持ちは変えられず、先輩以上に好きになったひとは出来なかった。
先輩は女性と結婚して、その妻は不倫をしていた。
たった1年で先輩夫婦の関係はほころび、とうとう離婚まで行き着こうとしている。
それでも俺の勘違いだと何度も何度も言い聞かせた。
だけど何度も先輩が歩み寄ってくれて気づいた。俺が俺のままでいられる場所は、先輩の隣だけだって。
俺たちは絶対に、繋がっている。
「也仁、俺も・・・・・・言ってないことがある」
先輩が、優しい声で言った。
「・・・・・・俺が弓と結婚した理由・・・」
先輩の手が、俺の腕を解いた。改めて向かい合い、俺は先輩の言葉を待った。
「俺はもともと、誰とも結婚する気はなかった。弓はずっと俺のそばにいたけど、そんな対象じゃなかったよ。・・・・・・弓は俺が、他に好きなやつがいることを・・・知ってたしな」
俺は、先輩と山口弓が仲睦まじく寄り添っていた夏祭りの日の光景を思い出した。腕を組み、お互いの顔を見つめ合って歩く二人に、そんな背景があったなんて、誰が想像しただろうか。
「俺は絶対に一緒になれない奴を好きだったから・・・・・・弓はそれを見抜いて、黙っているかわりに自分をそばに置いてくれと言ってきた」
「黙っているかわり・・・?」
先輩は小さくうなづいた。
「あいつは高校時代からずっと俺を追っかけてたからな。いいネタを掴んだ、みたいな感じだったんだろうけど・・・俺の方も、弓の申し出を利用した」
少しずつ、先輩を覆う殻にヒビが入っていくのが見えた。おそるおそる口に出す言葉は、今までの先輩を作り上げてきたイメージを壊し、本来の先輩に戻り始めている。
「俺は穏便に生きていくために、黙っていてほしかった。弓はそれを黙っている代わりに、俺の妻のポジションを手に入れた。高校時代つき合っていたこともあったから、お互いの性格はわかってたし・・・こいつとならなんとかなる、と思って俺は結婚を決めたんだ。・・・・・・最低だよな」
俺はなぜか、高校時代のあの雨の日を思い出した。
山口弓の誕生日、約束をぶっちぎって助けにきてくれた先輩。そんな素振りはこれぽっちも見せず、次々と殴り倒して、さらりと先輩は俺の前から消えた。
あの時、先輩も山口弓も、自分たちが結婚し離婚することなんて、思いもよらなかっただろう。
もちろん俺も、こんなこと、想像もつかなかった。
助けてくれた先輩への想いを打ち消すために、雨の中、落書きを消したんだ。
「也仁。お前、あの日言ってたよな」
「・・・・・・あの日?」
「俺が・・・五十嵐たちをぶちのめした日。お前がボコられた時」
考えていたことを見抜かれて、心臓が跳ねた。
「言ってた・・・って・・・」
「落書き消しながらさ・・・・・・好きになってごめんなさい・・・って、泣いてたよな」
俺が落書きを消したのは、先輩がいなくなってからだ。用務員室からデッキブラシと洗剤を借りて、学校の門が閉まるぎりぎりまで壁を擦り続けた。長い時間雨に打たれて、俺が学校を出る頃には校内の灯りもほとんど消えていた。
確かに先輩は俺が落書きを消したことを知っていた。
だけど、誰かから聞いたのだとばかり思っていた。
まさかあの場にいたなんて。
「雨が降ってきて、なんか気になって戻ったら、お前が泣きながら落書き消してた。声をかけようとしたら・・・俺の名前消しながら・・・そう言ってたからよ・・・・・・出ていけなくなってさ・・・・・・」
急速に顔に血が集まる。多分生きてきて、今が一番恥ずかしい。
「弓に言われたよ。由くんは高校の時も、今も、あたしより、あの人を優先するんだ・・・・・・って・・・」
「・・・・・・あの・・・ひと・・・?」
「・・・・・・言わせんのかよ・・・・・仕方ねえなあ」
先輩は笑った。
いつもの豪快な感じでもなく、悲しげでもなく、はにかんだような笑顔だった。
「俺もお前が、好きだったよ。ずっと」
波音が先輩の声に被さる。
手も、唇も、耳も、額も、脚のつま先も、冬の潮風にさらされて冷めたい。
心だけが、温かかった。
高校を卒業して、俺たちはお互いを想う気持ちを、それぞれの方法で封印して生きてきた。
諦めて、普通の振りして生きることに慣れた頃に再会した。
封印したと思い込んでいた気持ちは、眠っていただけで死んではいなかった。
先輩は言った。
「がりがりのやせっぽちで、おびえたウサギみたいな奴がどうして気になるんだかわかんなかったけど・・・・・・仕方ねえよなあ、こればっかりはさ」
「・・・・・・そんな言い方しなくても」
「本当のことじゃねえか」
「ちゃんと大人になりましたよ」
「だな。久しぶりにあった時はさわやか好青年になってて驚いたよ。・・・・・・あと、ヤった時も驚いた」
「だから、言い方・・・・・」
いつもの先輩に戻った。でも、表情はまだ照れくさそうだった。
俺はまだ顔が熱くて熱くて死にそうだった。
俺は先輩の手を掴んだ。
「・・・おい」
「誰もいませんから・・・・・・許してください。・・・・・・あと、」
「ん?」
「もう一回、言ってもらえませんか・・・・・・あれ」
俺は先輩に耳打ちした。
先輩は、はは、と笑って俺の身体を抱き寄せた。
「一緒に・・・なりてえな、也仁」
俺は、はい、と答えた。