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病室のドアを開けると、今日は珍しく父親が上半身を起こして座っていた。
痩せて頬がこけて人相が変わってしまった父は、もともと厳格なのに加えて、なお話しかけづらい雰囲気を醸し出している。
「父さん」
ゆっくりと振り向いた父は、ほとんど表情を変えずに、どうした、と言った。
この人はいつもそうだ。見舞いに来た息子に向かって、どうしたはないだろう。
「母さん、会合があるから。寝間着の替え持ってきた」
「そうか。すまんな」
紙袋の中から新しい寝間着を取り出し、父の着替えを手伝った。驚くほど痩せた胸は骨が浮き出ていて、俺は思わず目を背けた。
ずっと着続けてよれた寝間着を袋に戻し、別に持ってきたリンゴを丸椅子に座って剥く。あまり食欲がないというので、なるべく小さく切って、少しでも食べやすいようにして皿に載せた。
シャク、シャク、と音を立てて、父はリンゴを食べた。
父が食べている姿を見たのは久しぶりだった。この町に帰ってきてから、ゆっくり食事をすることもなかった。
なかった、というよりも、俺が避けていた。特に、見合いの話が持ち上がってからは。
「也仁」
不意に呼ばれて、我に返った。
リンゴを半分残して、父は俺をまっすぐ見つめていた。眼力は衰えていない。
父は、思いがけないことを言った。
「すまなかったな」
「・・・え?」
「お前の気持ちも聞かんと、勝手に勧めてしまったな」
「・・・見合いのことなら、もういいよ」
「母さんも反省してるから、許してやってくれ」
「わかってるよ。もう大丈夫だって」
「・・・ラソンブレも」
ラソンブレの名前が出て、ぎくりとした。最も重要な部分だ。
「お前とちゃんと話もせず、勝手に継がせようとしたこと、悪かったと思っている」
「・・・確かに、今、初めて父さんの口から聞いたよ」
「継ぎたくなければ無理しなくていい」
「何だよ、いまさら・・・無理するなって、じゃあ、経営はどうするんだよ」
「お前はもともと、帰ってくるつもりはなかったろう」
「・・・それは・・・」
「結婚も、ラソンブレも、お前にはお前の考えがあるんじゃないのか」
(解ってもらえるとは限らねえぞ)
仁科先輩の言葉が過ぎる。
おやじさんのために時間をつかってやれ、とも言われた。だけど急にこんな突き放され方をされて、なんて答えろっていうんだ。
継がなきゃならないと思っている。
結婚をしなくてもどうにかやっていくことは出来ないかと、答えが出ない問題を頭の片隅でずっと考えている。
リストラされて帰ってきた当初、ラソンブレは思いの外地元を支える大きなホテルになっていて、俺は出来るだけ後継者の話題を避けていた。
父親が病気になって避けて通れないことを実感し、仁科先輩とのこともありつつ、俺の頭の中はこのふたつのことで一杯だった。
「こんな言い方もなんだが・・・実際、どうにでもなる。お前が、なにがなんでもラソンブレを引き受けなきゃならないわけじゃない」
「だったら・・・・・・なんで最初からそう言わなかったんだよ」
潰すわけにはいかない。前崎支配人が引き継ぐ、ということもなくはない。でも、ホテルマンの長男がいるなら、そっちの方がいいに決まっている。
「也仁。母さんが、お前に聞きたいことがあると言っててな」
急に話の矛先が変わった。
「・・・ラソンブレの話じゃないのか」
「まあ聞け。母さんが言うには、お前が見合いを断ったのは、事情があるからだろうと言ってきかないんだ」
背筋を冷たいものが伝う。
事情?
何が言いたいんだ?俺も仁科先輩も、会う時は細心の注意を払っている。同僚たちだって全く疑っていないのに。
「ちょっとした噂を聞いてな。お前、「桜屋」の前で、乱闘騒ぎをおこさなかったか」
桜屋。
よく行く「漁り火」の姉妹店。
仁科先輩と湯沢宏樹が取っ組み合いになったのは桜屋の前だった。ギャラリーの誰かが俺を見て、父に話したのかもしれない。
俺は平静を装って言った。
「確かにあった・・・けど、あれは止めに入っただけで」
「・・・・・・也仁」
詳しく話そうとするのを、父の低い声に遮られた。布団の上で手を組み、父はひとこと、言った。
「お前は・・・・・・女性じゃ、だめなのか」
呼吸が止まった。
一番恐れていることが起こった。
今じゃねえだろ、と言った仁科先輩の顔が、脳裏で歪む。
俺が伝えるより早く、どこかから情報が入っている。
知っているのは、俺たち意外には、ただひとり。
仁科弓だ。
あたしよりあの人を優先した、と言っていたそうだ。
仁科弓が知っているのなら、湯沢宏樹に漏れていても不思議はない。
仁科先輩に恥をかかされた腹いせに、俺たちのことをばらまいたのか。
「・・・な・・・に言って・・・」
「母さんは、直せると思ってるようだ」
「なお・・・す・・・って・・・」
一気に頭に血が上り、気づいたら椅子から立ち上がっていた。
「病気じゃない・・・っ・・・何も知らないくせにっ・・・」
「也仁」
ここが病室だということを忘れて俺は叫んだ。幸いにも同室の患者はおらず、
父はベッドを強く叩いて俺を制した。
「座れ」
「・・・・・・っ・・・」
「落ち着いて聞け。・・・継がなくていいと言ったのは、その話に繋がってる」
「どういう・・・ことだよ」
父は穏やかな声に戻って話し始めた。
「・・・・・・俺は・・・お前の本当にしたいことを、させてこなかった。従順で勤勉なお前は、表立って反抗もしなかったから、自分で東京に出ると言ったのが嬉しかった・・・・・・ラソンブレを継いでほしいという思いより、お前が自分のやりたいことのために独り立ちする方が、ずっと嬉しかったよ」
父の話に、仁科先輩の名前は全く出なかった。どこまで知っているのかも検討がつかない。
でも、父は何かを理解している顔をしていた。
「なのにお前が戻ってきて、よく話し合おうともせず、俺も母さんもお前にラソンブレを継がせると決めつけた・・・だけどな、それは間違いだったんだと気づいたんだ」
言葉を切ったとたん、父は咳込んだ。喀血こそしなかったが、苦しそうにぜいぜいと息を吸い込み、吐きだした。
「もう・・・話すなよ。わかったから・・・」
「最後まで聞け」
力強く、父は俺の手首を掴んだ。子供の頃、母親に口答えをして怒られて、家を出されそうになった記憶がある。大きな手で引っ張られた手首が痛かった。
その時よりはずっと細くなった腕で、父は俺を掴み、離さなかった。
「也仁。ラソンブレのことも、お前の人生のことも、決めるのはお前だ。苦労するだろうが・・・・・どうしてもそう生きたいと言うなら、覚悟を決めろ」
「父さん・・・・・・」
「母さんの失言は・・・責めないでやってくれ。母親っていうのは、子供のこととなると冷静になれないもんだ。このことは俺がちゃんと話をつけてやる」
父は命がけで、俺を理解しようとした。
疲れたので寝る、といって父はベッドに横になった。顔色が白く、寝息は弱々しかった。
まるで別人の顔だった。
俺は面会時間が終わるぎりぎりまで、病室の丸椅子に座って、その顔を見ていた。