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目が覚めると、隣に先輩はいなかった。
ワンルームの端に位置するシンクで、先輩はコーヒーを淹れていた。コーヒーメーカーがないのか、ガラス製のドリップポットで丁寧に一杯ずつ落としている。
裸の足が、丈の長いニットのカーディガンからすらりと伸びている。最近切っていないのか、肩につく位の髪を無造作にひとつに結わえていた。
うなじに赤い痕がついていて、昨晩自分がつけたものだと気づいた。
俺が身体を起こすと、ベッドがぎしっと鳴いて、先輩が振り向いた。
「起きた?」
「おはよう・・・ございます・・・」
俺はあまり朝が強くない。先輩は穏やかに笑って、ガラスポットを持ち上げて見せた。
「飲むか」
「い、いただきます」
先輩はマグカップにコーヒーを注いで、俺の目の前に差し出してくれた。
かなり濃いめのブラックコーヒーに、強制的に目を覚まさせられた。
先輩は自分もカップを持って、俺の隣に座った。きわどい丈のニットからのぞく足が気になってしまう。今、起きたばかりなのに。
「寝癖」
先輩は俺の頭を指さした。俺は片手で飛び跳ねた毛を押さえたが、全くおとなしくなってくれない。
濃いコーヒーをひとくち啜り、先輩はにっと笑った。
「お前の髪でも寝癖つくのな。サラサラなのに」
「朝はだいたい大変なことになってます」
ふふ、と笑って先輩はもう一度コーヒーを啜る。俺は両手でカップを持ったままつぶやいた。
「先輩」
「あん?」
「なんか・・・履きません?下・・・」
「これからシャワー入んだよ」
「せめてパンツだけでも・・・」
先輩は自分の足と俺の顔を見比べて、にやりと笑った。
「・・・お前、意外とむっつりすけべ?」
「だっ・・・だって気になるんだから仕方ないじゃないですかっ」
「冗談、冗談、なんなら朝イチ、ヤっとく?」
「や・・・りません!」
「なーんだ。じゃあ、風呂入ろ」
ははは、と豪快に笑って先輩は立ち上がった。マグカップをシンクに戻して、鼻歌を歌いながら先輩はバスルームのドアを開けて入っていった。
ベッドサイドの時計を見ると、6;30。先輩の仕事のスタートは朝が早い。俺は今日、10;00出勤なのでまだ時間があるが、ひとつ伸びをしてベッドから立ち上がった。
あちこちに散らばった服を拾い集め、とりあえず自分もパンツを履いた。出社の前に家に寄って着替えようか。ジャケットは無事だが、ワイシャツとスラックスはひどい皺だ。
先輩が出てきたら、シャワーを借りよう。
バスルームから先輩の鼻歌が聞こえる。よく先輩の車から聞こえる洋楽だ。そういえばこの人は、やたら歌がうまいのだった。
思えば俺は、再会してから先輩のありとあらゆる姿を見ることが出来ている。
そのなかでもダントツでこの状態が一番、想像を越えて幸せだった。
「おい、也、ちょっと」
浸っている俺を、バスルームから顔だけ出した先輩が呼んだ。
「はいっ」
「バスタオル、そこのカゴに入ってるやつ、取って~」
「はい、えと、これですか」
「そうそう、その中のどれでもいいから」
カゴの中にくるくると丸められて入っているバスタオルの束から一枚引き抜いて、俺は急いで先輩に届けた。
先輩の身体から水滴がしたたり落ちて、足下が水浸しになっていた。
直視しないようにタオルを渡すと、先輩がふっと笑った。
「一緒に入るか?狭いけど」
「いっっ・・・いえ、大丈夫ですっ」
「なーり」
後ずさりしようとしたのを捕まって、引っ張られた。後頭部を引き寄せられて、キスをされる。
先輩の顔から落ちた水滴が冷たい。薄く目を開けると、すぐ側に先輩の長い睫毛がある。
「せんぱ・・・・・・」
「シャワー、使う?」
「は・・・はい・・・」
先輩は素早くバスタオルを腰に巻き付け、俺の横をすり抜けた。そしてカゴからバスタオルを取って、ウインクしながら俺に向かって投げた。
俺はタオルを持って大急ぎでバスルームに逃げた。
朝っぱらから、なんでこんなに俺は煽られてるんだ。
俺がシャワーからあがると、先輩はもう作業服を着込んでいた。俺は焦って、皺になったシャツとスラックスに着替えた。
「めっちゃシワシワ・・・それで仕事行くのか?」
「家に戻って着替えます」
「あ、そっか、近いもんな」
俺がばたばたしてる間に、先輩は残りのコーヒーを飲み、携帯と財布だけを持って靴を履き始めた。
「俺、先出るから」
「えっ、あっ、ごめんなさい、俺もすぐ・・・」
ネクタイも途中であわてて鞄を持とうとした俺に、玄関に立つ先輩が何かを投げて寄越した。割と鋭利で、そこそこ重みのあるものが、ごつん、と頭に当たった。
「あ痛っ」
「閉めといて」
俺の頭に当たったのは、鍵だった。
「えっ、でも、先輩帰りどうす・・・」
鍵を拾って顔を上げると、先輩は作業服の胸元からシルバーのチェーンをのぞかせた。それには、俺が持っている鍵と同じ形の鍵が通されていた。
にんまり笑って、先輩は言った。
「それ、お前の。いつでも来ていいよ」
「え・・・・・・」
「じゃあ、戸締まりよろしく~」
突然の合い鍵に呆然としている俺を残して、先輩はドアの向こうに消えた。
この人は、どこまで格好いいんだ。
さりげなさすぎない?
ふわふわした頭で俺は自宅に戻った。
シャワーを浴びたものの、ついつい顔がにやけてしまうので、もう一度冷たい水で顔を洗った。髭も剃って、髪も整えて、着替えをすませても、まだ時間があった。
それで俺はいいことを思いついた。
引き出しから唯一持っているネックレスを取り出し、トップのパーツをはずした。鍵をチェーンに通して首にかけると、先輩とお揃いになってしまって気恥ずかしくなる。
そして、言葉にできない幸福感に包まれた。きっとこの鍵を持っていても、俺は先輩に連絡をしてから会いに行く。
鍵渡したじゃねえかよ、と笑う先輩の顔が思い浮かぶ。それが俺たちの幸せのかたちだ。
ワイシャツの襟の中に鍵つきのネックレスをしまい込んでから、家を出た。
ラソンブレに向かう道すがら、携帯が鳴った。
先輩かと思って確認した画面には、母親の名前が表示されていた。
嫌な予感がした。
「もしもし・・・今向かってる。・・・・・・え?」