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冬の雨は、一度雪を溶かして、気温が下がってもう一度凍り付く。
仁科先輩から合い鍵を貰った翌朝、父親の病状が急変した。
病院にかけつけると、すでに意識はなく、心臓だけがかろうじて動いている状態だった。
母親と俺が主治医に呼ばれ、このまま目覚めない可能性が高いと言われた。電話が来た時から、覚悟はしていたつもりだった。が、実際に言葉にされると、それは心の中で重い石となった。
医師は出来る限りの手を施したが父は目覚めず、その一週間後、年が明けてすぐに息を引き取った。
あと1年、と言われて、数ヶ月で逝ってしまった。
遅くに出来た子供であった俺は、こうしてみるとやはり恵まれていたと思う。
頑固でワンマン父ではあったが、何かあれば必ず俺を後押ししてくれた。
東京に出る時、東京から戻って来る時、仁科先輩とのことを理解してくれた時・・・・・・もしかすると理解までは行っていないのかもしれない。が、否定はしなかった。
父の葬儀は、雨だった。
1月にしては気温が高く、雪が融け、道はシャーベット状になっていた。
葬儀に参列する人々は皆傘を持ち、喪服の肩を濡らして会場に入って来る。
喪主である俺は、悲しむ暇もなく次々とやってくる弔問客に頭を下げ続けた。
昨晩の通夜から母も抜け殻のようになり、隣町にすむ叔母に助けてもらって参列していて、俺が葬儀に関してあらゆることを請け負わざるを得なかった。
焼香に並ぶ弔問客の中には、高校時代の親友の仲村もいた。五十嵐梨子も来てくれていた。驚いたのは兄の勇人もいたことだ。父親同士親交が深いからだろうが、俺は正直どんな顔をすればいいのかわからなかった。
俺はとにかく冷静にひとりひとりに頭を下げた。
仁科先輩も参列してくれていた。
喪服に身をつつみ、俺と母親に向かって深々と頭を下げる。父親の祭壇に手を合わせ、遺影をしばらく見上げていた。
仁科配管は、先輩の父親の代からラソンブレに出入りしている。会場のどこかに仁科先輩のお父さんもいるのかもしれない。
俺は感謝を込めて、席に戻る仁科先輩を見送った。
この町の一番大きな墓地に、葉山家の墓がある。四十九日を過ぎ、無事に納骨を終えた3月はじめのこと。
今年は流氷を楽しむ暇もなく、春になろうとしていた。といっても桜が咲くのはずっと先、5月になってからだ。
所々にまだ雪の残る墓地を歩き、大きな御影石の墓が見える通りに出る。
父は癌だと宣告される少し前に、この墓を建てていたらしい。
墓の前に、ひとり男性がしゃがみ込んでいた。
水を汲む桶と柄杓がそばにあり、紙袋に入れた白い花を墓の脇にある花瓶に差し込んでいる。
近づいて行くと、それが仁科先輩だとわかり、俺は思わず声をあげた。
「先輩・・・・・・」
先輩に会ったのは葬儀の日以来だった。
いつもの作業着にブルゾンを羽織った先輩は、柔らかく笑った。
「おう」
「花・・・・・・持ってきてくださったんですか」
「ああ、少しだけど、きれいなのがあったから」
「ありがとう・・・ございます」
俺は線香に火をつけ、持ってきた紫色の花を先輩が挿した白い花と一緒に供えた。
俺が手を合わせると、先輩は隣で一緒に手を合わせてくれた。
まだ風が冷たかった。
先輩は俺に話しかけることはなかった。
しかし立ち去ろうとはせず、俺の少し後ろで静かに見守ってくれていた。
「ご心配を・・・おかけしました」
「大変だったな。お袋さんは・・・元気にしてるか」
「最近やっと普通に飯を食うようになりました。少し立ち直って来たと思います」
「そうか・・・・・・お前は?」
「俺は、大丈夫です。どちらかというとその後のことが忙しくて・・・実感を持つ暇もない、みたいな感じです」
「だよな。お前がやらなきゃ、どうにもならねえよな」
父が亡くなってから、当然のように俺は忙しくなった。実質、今すぐに俺がラソンブレを継ぐ訳ではないが、やはり水面下ではその準備が着々と進んでいる。フロントに立つ傍ら、経営にも関わらざるを得なくなってきていた。
「父が亡くなる前に」
俺は急激に、先輩にこの話をするべきだと思った。今が最適なタイミングだと思ったのだ。
「俺が女性では駄目なことを、話しました」
「え・・・・・・」
居酒屋の前での乱闘騒ぎで知られたことは黙っておいた。いずれどこかでわかるのかもしれないが、今、大切なのはそこじゃない。
「理解してくれた、とまでは行きませんが・・・そういうことなら覚悟して生きていけ、と言われました」
先輩は返事をしなかった。怒っているのかもしれない。
「母親を説得してくれたんです。母は・・・・・・同性愛を病気だと思っていて」
「・・・病気か」
「四十九日が終わってすぐ、母とも話しました。理解は出来ない、と言われましたが、父のおかげで最悪の事態は免れたと思います。相手が仁科先輩だとは・・・まだ、言えてないんですけど」
「也」
俺は数歩後ろに立っている先輩を振り返った。
先輩は俺を気遣う表情でこう言った。
「おやじさんは・・・悲しまなかったか」
「わかりません・・・悲しんだかもしれませんけど、歩み寄ってくれようとしてくれたんだと思ってます。母も・・・父に言われてからは、認識が変わったみたいですし」
「・・・そうか・・・」
「もし言わないまま送ることになってたら・・・すごく後悔したと思ってます。先輩にはご心配をおかけしましたが・・・」
「お前が納得してるなら、俺は・・・それで構わねえよ」
「はい」
先輩は不意に空を見上げた。
そして言った。
「也のおやじさん、きっと今、「そいつなのか」って言ってんだろうな」
「・・・かもしれないですね」
俺には先輩が父親の病気のことを話したときから、ずっと後悔しているように感じていた。存在を近くに感じながらも、一枚、壁があった。
でも今、その壁を壊すのは俺の役目なのかもしれない。
「先輩」
俺は先輩の手を取った。今日は、先輩は驚かない。
「改めて俺から言わせて貰います」
先輩は俺の目を見て、薄く唇を開いた。
「先輩がどう思っていたとしても俺は、やっぱりあなたと幸せになりたい。これから先、誰に何を言われても、俺のこの気持ちは変わりません」
何度も伝えたつもりでいた。でも、身体を繋げても、合鍵を貰っても、寸前のところで先輩の手に届いていなかったこの想い。
寂しそうに笑うあなたをもう見たくない。
同じ性で生まれてきた、ただそれだけなのに。
「あなたが寂しくないように、ずっと側にいますから」
「な・・・り・・・」
「たまには・・・甘えてくださいよ」
背中を押されるかのように、春の風が吹いた。
父の死を越えて思ったことは、時間には限りがあるということ。
いつかきっと、と思っているうちに、ある時突然、強制的に幕が降ろされるかもしれない。
だとすれば、後ろ指を刺されても、心ない誹謗中傷の的にされたとしても、ためらっている暇なんかない。そんなの雑音でしかないのだから。
肌の色が違う、髪の色が違う、言語が違う、それと何が違うんだ。
人が人を愛するのに、身体の構造が違うだけで、どうして非難されなきゃならない?
先輩が、唇を噛みしめた。
急にうつむき、動かなくなった。そして、かすれ声で言った。
「・・・・・・生意気・・・なんだよ・・・也のくせに・・・」
「也のくせにって・・・口悪いなぁ」
「元ヤンなんだから・・・しょうがねえだろ・・・」
「ヤンキーだった頃、本当に格好良かったですよね・・・・・・」
先輩は急に顔を上げた。作戦成功。
「なんだよ、今はダサいって言いたいのか・・・・・・わっ」
俺は先輩を抱きしめた。と、言ってもやっぱり向こうの方がガタイがいいので、一方的に抱きついているように見える。
「・・・・・・也さん、外だけど」
「黙って」
「あ”?・・・・・・っん・・・」
その時のキスを、俺は一生忘れないと思う。
先輩の目から一筋の涙が流れ落ちた、というのを、その後何年も先輩は絶対に認めなかった。