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「也仁さん、コーヒーいかがです?」
「ありがとうございます、いただきます」
前崎支配人が直々に、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。緊張が解けて、いつものコーヒーが数倍旨く感じた。
父が逝去して3年。
俺はフロント業務をこなしながら経営を学び、この度晴れて正式にオーナーとなった。
母は引退し叔母と一緒に住んでいるが、最近はずいぶん明るくなり、婦人会だのダンスレッスンだのと楽しく過ごしているらしい。
大きく変わったことといえば、世界的なパンデミックが巻き起こり、営業形態を変えなくてはならなくなったことだった。
レストランではテイクアウトメニューの販売を始め、情勢が落ち着いてきた先週には感染対策を徹底して通常業務も再開した。町の人々もレストランの再オープンに、喜んで足を運んでくれた。
今日の定例社員会議でオーナーに正式に就任したのだが、やはりまだ実感がない。
俺としてはフロントに立ち続けたいと思っているのだが、そうはいかないようで。母親の使っていた「社長室」をそのまま貰い受け、裏方として仕事をすることになった。
とりあえずオーナーと呼ばれても振り向けない。なのでいつも通り也仁さんと呼んでくれと、従業員には頼み込んである。
「也仁さん、お客様ですよ」
前崎支配人の顔を見て、誰が待っているのかを察知した。
俺は飲みかけのコーヒーを飲み干して、わかりました、と答えて立ち上がった。
PCを閉じて、部屋の壁についた小さな鏡で襟元を正し、ロビーに向かう。
「なりくん!」
桃音ちゃんは白いレースの襟のついた、上品な紺色のワンピースを着ていた。
今日は市内の小学校の入学式。
珍しくシックな黒のツーピースの泉美さんの傍らで、桃音ちゃんは淡いピンク色のランドセルを背負って俺に向かって手を振った。
「ほら、ももちゃん、ちゃんと言わなきゃ」
「うん!あの、なりくん、ランドセルありがとう!」
「ありがとうございました、でしょ?」
桃音ちゃんのランドセルは、俺からプレゼントさせてもらった。子供どころか、姪も甥も望めない俺の憧れは、親戚の子に何かを買ってあげること。
桃音ちゃんによく似合う可愛いピンクを選んだ。想像以上にぴったりだった。
「桃音ちゃん、入学おめでとう」
嬉しそうに笑う桃音ちゃんは泉美さんに似てきたように思う。顔のまわりの髪の毛をきれいに編み込まれていて、まるい額が可愛らしい。
「也くん、今日、夕食一緒にどう?めずらしくうちの旦那も一緒なんだけど」
泉美さんと俺は、つき合いが深くなってくるにつれ、二人でも食事に行ったり、飲みに行くようになっていた。とは言っても、もちろん男女の仲にはならない。だいたい旦那さんに対しての文句を聞く役目だった。
一度だけ旦那さんにも会ったことがあり、泉美さんにベタ惚れの、大柄で優しい人だった。
桃音ちゃんはというと、家でもよく話題に上るほど、今でも俺を好いてくれているらしい。旦那さんが嫉妬するほどだそうだ。
今日は桃音ちゃんのお祝いでお鮨を食べに行くという。お祝いの席だというのに俺を誘ってくれるなんて、本当に感謝しかない。が。
「なりくん、行く?」
桃音ちゃんは5歳くらいから「おにいちゃん」が「なりくん」に変わった。
泉美さんの話し方にそっくりになってきて、たまにびっくりするぐらい大人びた物言いをする。
「あ・・・ごめん、桃音ちゃん、今日は・・・」
俺が言い掛けたとき、泉美さんが口に手を当てて、あ、と言った。
「そうだった、そうだった、ごめんね。ももちゃん、也くんとはまた今度ね」
「え~、行かないの?」
「也くんは今日、大事なご用事があるの」
桃音ちゃんは頬を膨らませて、上目使いに俺をにらんだ。小学1年生にしてこの仕草。初めての彼氏が出来るのも時間の問題だろう。
「ごめんね。次は一緒に行くから。またね」
まだ桃音ちゃんの機嫌は戻らないらしく、寂しそうに手を振って泉美さんに連れられて行った。
俺が故郷に戻って来て、ラソンブレを正式に任されるまで、あっという間だった。
懐かしい港町での生活は、凪のように穏やかで刺激の少ない日々だと、あの日駅に降り立った俺はそう予想した。ところが、東京で馬車馬のように働いていた時代とは比べものにならないほど、この町での生活は色彩に富んでいて、刺激的だった。
着るものはフロントマンの制服から、自前のスーツに変わった。
仕事の内容も、他人からの評価も変わった。
まだ若輩者の俺を支えてくれる人も多い。それは間違いなく亡くなった父と、引退した母のおかげだ。
自分の居場所を突然失った俺を温かく迎えてくれた、海のある町。
両親とホテルラソンブレの仲間たち。
うまくいかなかったことも、絶望したことも、まるごと受け止めてくれた故郷に、俺はこれから人生をかけて恩返しをしていく。
そして。
マンションのエレベーターを出て、部屋の鍵を取り出す。
いつもの仕草なのに、今日はうまく手が動かない。鍵を差し込んで回し、差し込んだままドアを引く。
今日出ていく時、無かったはずの靴が玄関に並んでいる。履き古したスニーカー。俺は自分の靴をかろうじて脱いで、急ぎ足でリビングに向かった。
テレビの音が漏れ聞こえる。
俺はリビングに繋がるドアを開けた。
ソファの背もたれに腕をひっかけてくつろぐ後ろ姿。
煙草の煙が立ち上っている。
「由悠季さん」
俺の呼びかけに振り返ったその顔は、少し痩せたように見えた。変わらない笑顔と、よく通る声で由悠季さんは言った。
「おう」
「・・・お帰りなさい」
「ただいま」
由悠季さんは立ち上がった。俺は鞄を足下に放り出して駆け寄った。
大きな手に受け止められて、俺は由悠季さんの胸に抱きしめられた。やっぱり少し痩せている。俺は思わず顔を上げた。その顔を捕らえられてキスをされて、心配事を口に出す暇は与えられなかった。
「心配そうな顔してんじゃねえよ」
「・・・だって」
「もう大丈夫だって言ってんだろ」
1年前。
仕事帰りの由悠季さんが事故にあったと連絡があった。
運転していた社用車とトラックがぶつかったと聞いて、気を失いかけた。
ひどい事故だったにも関わらず奇跡的に左足の骨折だけで済んだが、神経に損傷があり麻痺が残るか、下手すると歩けなくなるかもしれない、と言われたらしい。
俺は戸籍上の家族ではないので、泉美さんから事情を聞いていた。
見舞いに行った病室で、由悠季さんは見たことのない、沈んだ顔をしていた。
手術は札幌で行われることになった。
一度は絶望しかけた由悠季さんも、腕の良い医者に出会い、前向きな気持ちを取り戻した。医者が言うには、手術が成功すればリハビリ次第では歩けるようになる、ということだった。
札幌の病院に会いに行った俺に、先輩はいつもの調子でこう言った。
(絶対に歩けるようになって帰るから、お前はもう見舞いに来るな)
由悠季さんは、弱っている姿を見せたくなかったのだと思う。
どんなに辛いリハビリだろうとやってのけるだろうと俺は思ったが、その様子を見られたくないのであれば、俺は黙って待つしかない。
この人は絶対に帰ってくる。
安心して帰ってこられる場所を作るのが、俺の役目だと思った。
俺は言われたとおり、その後は退院まで病院を訪れることはなかった。
電話やメールで連絡を取り合っても、30過ぎの男ふたり、ひとことふたことで終わってしまう。
そしてその頃俺はちょうど、オーナー就任のための準備で忙しくなってきた頃だった。
それもわかっていて、多分由悠季さんは俺を遠ざけた。
結局、いつでもお見通し、なにひとつ俺は由悠季さんにかなわないのだ。
「俺のことより、お前はどうだったんだよ?」
「えっと・・・一応、無事に終わりました」
「晴れて社長ってことか」
「社長、っていうかまあ、はい」
「なんだよ、歯切れ悪いな」
「そんな急に変われませんよ」
「・・・お前はいつもそうだよな」
ははは、と笑う由悠季さんの笑顔が、心の底から嬉しかった。
俺を遠ざけて、仕事に集中させようとする優しさ。自分の辛さなんか何でもない、みたいな顔をして、ちゃんと俺のところに戻ってきてくれた。
やっぱりこの人は俺のヒーロー。
「そうだ、也仁。これ」
由悠季さんはソファの影から紙袋を取り出した。足の運びがスムーズでほっとする。
「就任祝い」
「えっ」
出てきたのは流線型のボトルが美しい高級ワインだった。俺は驚いて、差し出されたボトルを絶句したまま受け取った。
「お前、赤好きだろ?」
「あ、あの、実は俺も快気祝いにふたりで飲もうと思って、由悠季さんの好きな白、買ってあって・・・」
目があって、一斉に吹き出した。
俺たちはいつもそう。考えていることが繋がってる。だから、何があっても大丈夫なんだ。
「・・・本当に、お前すげえな」
「すごいのは由悠季さんですよ。今日は快気祝いにしようって言ってたのに・・・」
「じゃあダブルで祝おうぜ」
「そうしましょう」
そうは言ったものの、俺たちはふたりともその場から動けなかった。ワインボトルを持ったまま、もう一度近づき、自然に唇を重ねた。
懐かしい、由悠季さんの香り。
髪を撫でられると、いつもの柔らかな感触にしばらく離れていたことを忘れてしまう。
「也仁」
由悠季さんは俺の耳元でささやき、何かを俺の手に握らせた。
「え・・・・・・」
俺はてのひらに感じた感触に、声を失った。
そんなはず、ない。
「気分だけでも・・・とか、思ってさ」
「由悠季さん・・・」
てのひらに載せられた、プラチナの指輪。由悠季さんの体温で温まっている。
由悠季さんは照れくさそうに、キーネックのカットソーの襟元から、シルバーのチェーンを引っ張り出した。
初めて由悠季さんの部屋の合い鍵を貰った時、このチェーンに鍵が通されていたのを覚えている。
そこに、今は俺と同じデザインの指輪が通されていた。
涙で滲んで前が見えない、というのは、こんな感覚だったのか。
由悠季さんが病院に運ばれたとき、俺は病室に入れなかった。
泉美さんがいなければ、俺は病状を知ることすら出来なかった。
それはこれから先も同じ。
世間的に俺は、由悠季さんのなんでもない。
それでも俺は、この人の側を一生離れない。
由悠季さんは俺の左手に指輪をはめながら、言った。
「ちょっとサイズきついな・・・お前太った?」
「ふ・・・太ってないですっ」
「冗談だって」
サイズはぴったりだった。
由悠季さんは自分の指輪をチェーンから外して、てのひらに載せた。俺は黙ってそれを受け取った。
由悠季さんの手は指が長く、てのひらが厚い。
シルバーのシンプルな指輪は、由悠季さんによく似合った。
揃いの指輪をはめた俺たちは、誰の立ち合いもないふたりだけの部屋で、お互いの人生を預け合った。
「也仁」
「はい」
「待っててくれて・・・ありがとな」
その言葉が、怪我のことだけを言っているわけではないのは解っていた。
でも俺はあえて、こう答えた。
「待つの、慣れてるんで。1年なんてあっという間でしたよ」
「・・・そっか」
由悠季さんは、安心したように笑った。
そして指輪をはめた左手で俺の左手を取った。
「ジジイになるまで・・・そばにいろよ」
「・・・ちゃんと看取るんで、安心してください」
プロポーズの答えを、やっと貰えた気がした。
らしい言葉だった。恥ずかしくて、愛してる、なんて言えない。俺たちにはこのくらいがちょうどいい。
言わなくてもわかっているから。
由悠季さんは、高校生の時と同じ顔で笑っていた。
つられて、俺も笑った。
これからも、この町で、ずっとあなたの隣で。
完